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中垣さんのスピーチ

 

<「九条俳句」裁判、さいたま市控訴>

 

「2年4カ月の訴訟は何だったのかと憤りを感じる」―判決から1週間、市側の控訴を受けての原告の怒りの声である。句の「公民館だより」への不掲載を「思想、信条を理由とした不公正な取り扱い」で「違法」との司法判断に、市側が不服を申し立てたのだ。
不掲載を一貫して、「概ね妥当」と容認し続けてきた市長の意を受けてか、市議会、文教委員会それぞれに多数の同意を得ての控訴決定である。しかし、控訴の趣旨は、敗訴部分の取り消しを求めるだけで、何が不服か判らない。不掲載理由の検討プロセスを「不十分」「場当たり的」とズバッ、その原因を「憲法アレルギー」とバッサリ。カッコ悪くも露呈した行政の面子を何とか…と、理のないところでの悪あがきにしか見えない。こりゃ、そもそもの「アレルギー」昂じて、忖度の上塗りとでもいうべき重症化ではないのか!

判決の翌日、この夏、本編上映主催の相模原市の「九条の会」メンバーからメイルを頂いた。「判決に勇気をもらった」に続いて記されていた小さな”事件”―サークルの展示前日、館長から「やめろとはいえないけれど、今回、選挙もあるし、『九条』を出さないで」と言われたとのこと。各地で頻発している、「またしても―」のひとつである。

今回の市側の控訴を受け、原告、市民応援団も即刻控訴した。これからの戦いは、地裁判決が避けた「学習権と表現の自由」、九条句の「たより」への掲載(復帰)をはじめ、社会教育とそのための施設が誰のものかを社会一般に問う、新たな地平を望む法廷が期待される。市民応援団のいう「主役は私たち、市民が主役」を再確認する運動の新たなスタートである。
  
―「ハトは泣いている」―  (10.23.2017)

 

<判決続報>

 

さいたま市が控訴したそうですが、「そうするだろうな」という印象です。
裁判のやり取り、特に市側の主張をしらないので、判決文にたいする原告側のコメントや新聞報道からの印象ですが。

新聞記事によると「当方(市)の主張が(ほとんど)認められている」と市は評価するコメントを出しましたが、

「社会教育の専門家とは言えない」「掲載拒否判断は違法行為」「憲法アレルギー」など、判決文でけちょんけちょんにおちょくられては市としても、市側の弁護士としても職業的見栄の「全否定」にちかい内容ですから、
裁判長にしっかり憲法と法律を順守して仕事をしろよ、と、挑発されての控訴です。

裁判長が争点を拡大してくれました。

 

<10.13 浦和地裁報告>

 

「…5万円…棄却」―裁判長着席、言語不明瞭気味の判決主文で聞き取れたのは2語のみ。32人の傍聴者が不審げに顔を見合わせる間に、退廷。20秒余りの寸劇のよう。

「勝利判決!」「市側の主張は断罪されました!」―27人の弁護団を率いる佐々木団長の言に「拍手と歓声」が沸いたのは閉廷から1時間余り後の報告会でのこと。
 弁護団も判決全文を吟味する間もないようであったが、「勝訴」には違いなく会場には安堵感と喜びが共有されていく中、司会者に促されて原告はじめそれぞれの発言。これらの独断的採録による報告―:
原告「勝訴の自信の一方、不安もあった。『不掲載は誤り』にホッとした思い。(事件は)ちっちゃなことだったがとても大事なことと認識するようになった。一方、3年4か月、(「公民館だより」の)九条句不掲載と俳句欄の空白がありながら、(掲載請求)却下は納得できない」

佐藤一子(社会教育学者/市民応援団)「全国に1万5千館ある公民館や図書館は社会教育のおける自由について足元を見つめる必要を促す判決。正当な理由、合理的根拠がないままの事件で、社会教育の現場に「公共性」を守ることが確認されたと理解できる。地域の学習施設に住民が主権者として社会に発信、問題提起したことに意義がある。行政と市民相互の信頼関係がないと社会は成り立たないことから、学習の場としての公的施設が地域住民の「表現の自由」を課題として受け止める必要がある。この後は(九条句を)「掲載させる」運動へ」

武内(市民応援団)「主役は私たち、『市民が主役』が確認された。掲載に向けて市側との交渉はこれから」

久保田弁護団事務局長「100%ではないが、意義ある判決―『中立・公正性』が市民の権利を制限する根拠になるのか、『不掲載』の違法性指摘は社会教育施設に対して意味あるもの(警鐘)となった。社教法23条が(館側の拠った)公平中立を正当化する根拠にならないとされた。姫路市などで市民の社会教育施設利用に際して、政権批判の内容を理由に不許可としたケースが違憲判決を受け、市側が謝罪したが、こうした事例が一般化することが望ましい。社会教育の場で専門性を持った人材が配置されていない、社教法を理解した専門職員が必要」

石川弁護士「学習権は思想、信条の自由と同様、憲法上の自由の対象となる」
以上が報告会の「暫定的」総括である。

この後に入手した判決文で際立っているのは―:
「原告の思想信条を理由として不掲載」としたことは「不公正な取り扱い」で「違法」と断じたこと。また、繰り返し指摘しているのが、不掲載とする過程とその結論に至るまで館側当事者が「十分な検討をしていない」それは、「一種の憲法アレルギー」の発露だと推認している。これはいみじくも、世に蔓延する忖度の大きな誘因に違いなく、司法の場でのこの認定はこの時期画期的と言ってもいい。

最後に原告のひと言「提訴に、はじめ迷いがあった。昔だったら牢屋に入れられたかもしれないが、どんな小さいことでも発言することの大切さを知ったことは良かった。「九条守れ」は今も言い続けなくてはいけないし、掲載に向けて前向きに取り組んでいきたい」
 ―今もなお、「ハトは泣いている」のだ― (10.15、2017)

 

「九条俳句」内容的には勝訴

-憲法問題、忖度問題にはふれずー
(裁判長は公民館館長を「憲法アレルギー」病とおもんぱかる)

 

判決は一部勝訴でした。

詳細は松本監督のコメントがあると思うので、私は要点だけ報告します。
大野和明裁判長は主文を読み上げただけで、それも無茶苦茶聞き取りにくい、しかもものすごく早口で、

30秒足らずの主文朗読中、私が聴取できた言葉は「被告は原告に5万円しはらえ」というのと「✕✕✕却下✕✕✕」だけでした。

しかし会場を移して行なわれた報告集会の冒頭の弁護士の報告と記者との質疑から確認できた裁判官の考えはとてもまっとうなものだと感心しました。

まず、公民館が主張した「公正中立」の理解を批判。公民館は市民が自由にものをいう権利を「公正中立」を盾に妨げることがあってはならない・・ということだ、

また、公民館のおこなった掲載拒否という行為は公務員の公正取り扱い義務に反している違法行為だと断じたこと、

さらに、一方の意見や思想を取り上げただけで公正中立性が損なわれるとした公民館職員(館長)の判断は著しく専門性を欠いている・・・

などとした、ワタシ的には裁判官としてとても立派なジャッジだったと感じた。

俳句の掲載をせよ、としなかったのは残念だが、

掲載するしないは法律的(契約上)は公民館側の裁量の範囲内なのでそこまでは言えないが、あんたたちの考えは間違っていて、

しかも社会教育のプロとは言えない素人だよ・・・

勉強しなおしなさいといったところか。 

裁判官が元教員だったという公民館の館長をさして「憲法アレルギー」としたのも絶妙な診断だ(笑)

裁判長は『ハトは泣いている』中の中垣さんの「日本中病気」のことばをのシーンを見たのかも(笑)

 

<上映展開―「九条の会」へのアプローチ>

 
テレビを見る習慣がない身に、新聞とラジオから72回目のその日を思い出させられた。8月6日に次ぐ9日の長崎―政権の無為を示すだけのいつもの首相の言葉の羅列を脇に、核の被害と脅威を怠惰に見遣るだけの国に積極的対応を促す長崎市長、「あなたはどこの国の首相ですか」と面前のその男に問うた被爆者代表―そこに露呈されたのは、国際会議の場でも「被爆国」としての主張をなし得ない政権への苛立であり、国家権力が70年余り、建前としてきた平和主義が口先だけの建前に過ぎず、本気で取り組む意思などなかったことへの不信と憤りではなかったか。
「ハトは泣いている」上映会は、しぶとく市民団体の手で続けられている。今月も2日のミニ・シンポに続く6日、20日、9月3日と続くが、その先を模索する制作委の姿を受けて励ましの電話をいただいた。
この方は、茅ヶ崎での上映会で本編に共感を覚え、「今の状況を考える上で多くの刺激と示唆を含む映画」の上映を相模原市内で実現(64名)した女性グループのひとりである。ここから連鎖的に同地域市民グループによる上映が予定されるようになる。この方々に共通するのは「九条の会」、”どこか危ない”現状を考えようと集まった「学習グループ」、「近隣住民の集まり」―上映後、多くの場合、主催者と来場者を交えた話し合いの場が作られるが、そこには前記の長崎に通じる政権への不信、「危うくなった」憲法九条と先の戦争の問い直しへの共通したニーズが語られる。そのニーズは内実が怪しくなった「平和主義」と共に、それ以上に実在が危ぶまれる「民主主義」、それぞれの確認に向けられているように思える。
先程「励ましをいただいた」と述べたが、首都圏に限られていた上映の場をさらに他の地域へ展開して行くアクセスが掴めないというこちらに「九条の会」へのアプローチを勧められたのである。
「全国に7000と通称されるその数、規模と地域も大小様々、横の連絡はほとんどなく、名称はあるが活動の実体がない=一時的気分で動いたが『持続する志』を欠いたグループも少なからず、と聞いていますが…」との当方の反応に、「そういう団体もあるが、地に足を着けたひと達も沢山います。とにかくコンタクトの努力をしてみて―」と。そして「映画の中で中垣さんは『事件後、私から離れていったひと達が続いた』と言ってましたけど、映画を見たひと達の中にはあの方に沿おうとする人も沢山いるんです」と自らの実践と体験を踏まえての話。
そうなんだ、映画をきちんと受け止めるひと達は確かにいるのだ。揺らぐ九条とその先の平和の確認を問い続ける「長崎」と手を結び、「九条の会」の持続する志ある人びとへのアプローチを思い決めた電話であった。  
お近くに「九条の会」会員をご存知の方、情報の拡大と仲介をよろしくお願いします。
(2017年8月10日記)

 

<「九条俳句裁判」最終審=第11回公判 >

 
さて、記憶をたどりながらの最終審の報告―原告側には句作者の他に8人の弁護人。対する被告側前列には、2人の弁護人と初回から変わらぬ市教委主事。本編中、度々の市民の批判に‴カエルの面…‴ よろしく、やり過ごし続けたあのお方だ。
 一方の弁護側証人は2人―最初が市公民館運営審議会(公運審)委員長の安藤埼玉大教授。その証言からは、公の側の職務と市民(という存在)への無理解と無視が露呈する―先ず、公民館は市民の声をより多く聞き届け、これを反映して運営するという1949年、文部省が定めた施設本来の使命と役割が損なわれたこと。その内実は第10回公判報告に述べるように、九条句を前に「難しいかなぁ」に始まり「公平中立」のリフレーンへの滑稽な展開は先に述べた通りだ。驚くのは、公民館の役割が損なわれる現実(それが事件として進行するのだが)を問題と捉え、審議、是正に向かおうとする委員長の意向を前に、市教委側が消極的~批判的対応に終始。揚げ句に、職員が2~3人のユニットを組み、公運審各委員を個別に訪問、なし崩しの反対工作を働きかけたこと。これを背景に教育長は、市民側の地域的解決への呼びかけに背を向け、請願を無視し続けたのである。この一連の構図が示すのは、社会教育現場での職務の背任、公運審機能のサボタージュ、俳句掲載拒否=市民の「学習権の侵害」である。
 小休憩後、傍聴の支援者たちが待ち望んだおおトリ、原告=句作者だ。
弁護人と原告とのやり取りは、周到なペア・ワークと言えた―公民館に集う句会員の俳句への関心、句会の楽しみなど、社会教育の一環としての俳句会の定義づけがなされる。次いで、作者が「表現がつたない」と思いながらも、特選句に選出された経緯。そして、掲載拒否への思いもかけない公民館側の対応。やがて、原告の口からは、最初の戸惑い、掲載拒否を理不尽と解し、やがて内心の憤りが「検閲」を意識しての怒りへと転じていくプロセスが語られる。そして、九条句の掲載拒否から2年近くに及ぶ俳句欄の中断という館側の対応に対して、「市教委側が表現の何たるかを理解していたら『事件』は起こり得なかっただろう」次いで、館側の「『公平中立』は不可解、当初迷いもあったが、提訴は正しい選択だった信じている」=不屈の宣言に聞こえる。
 最後に「ささやかな活動が法的根拠のない、的外れな理由で阻害された本当の理由を知りたい」被告市長に対して「市民の文化活動に心を寄せてもらいたい」と迫る。最後に、「自らの戦争体験から戦後70年、平和に包まれた生活は憲法九条に守られたもの」「その思いは句会員皆が共有している」「当たり前のことが当たり前にできるように裁決を」とのアピールで閉じられた。
ほぼ1時間半に及ぶ原告陳述は、公民館に限らず公の場に蔓延する忖度を典型的な形で表出させた―「九条守れ!の女性デモ」への「難しいかなぁ」に始まる短絡。過剰な警戒と慮りが生んだ説明と論理を欠いた「公平中立」の空疎な連呼。笑えないのは、公の現場にいるひとたちの忖度が、当人たちに素朴な表現を封殺したことと認識されず、これが基本的人権にかかわる自由への暴力となり、その先の憲法、平和を侵す脅威となることへの想像力が働いていないことだ。
そして、この想像力の欠如は、政権中枢の慢性的病いとして永田町を席巻し、論理と説明に代わり、強弁と論理のすり替えを日常的に許すほどにまで、良識の劣化を加速している。
(2017年5月31日記)

 

<「梅雨空に 「九条守れ」の 女性デモ >

  -「九条俳句裁判」が露呈するもの- 
 
裁判開始から1年9カ月、第10回を迎える公判は「テレビドラマの法廷シーン」をはるかに超えた攻防がもたらす緊張感の一方、モリエールも顔負けの滑稽さを伴うものでもあった。内容の多くは本編中で語られるが、そのナンセンスさの示す怖さを伝えたい。
被告=市側証人は3人―提出された“九条俳句”を問題と感じた公民館の担当職員とその館長、両人の問題視を追認した管轄公民館長。彼らに対し、原告側7人の弁護士が緻密な連携で、質問、事実の確認、掲載拒否理由の論拠(の無さ)を糺していく。
「事件」の発端は、受け取った担当職員の「(掲載が)難しいかなぁ」の印象だった。
この「難しいかなぁ」は当の館長とそこの管轄公民館の館長も同じ言葉を使った。その「難しさ」の根拠を問われると説明として聞ける言葉が出てこない!曰く「思想的、政治的」、「九条守れ、女性デモは政治的要素を含む」「(小中学校の)入学式、卒業式での日の丸、君が代で職員会議がもめた経験があった」―この直結/飛躍は何なのだろうか?!俳句そのものを見ていない。
 翌日、句会と句作者に「掲載は難しい」と伝えるが、聞いた方は当然、「何故ですか?」案の定、納得を得られる説明はできない。揚げ句が「代わりの句を…」とトンデモナイ要求をするが、その理不尽さは自覚されていない。次いで、句作者から文書による説明を求められて頼ったのが社会教育法23条=「特定の政党の利害に関する事業、候補者の支援」を行ってはならないの条項。そして公的施設としての「公平中立」だ。そこには俳句という「17文字の文芸、表現」の定義など全く視野にない。そして、23条も社教法も公民館という公の側を縛るものであって、市民を規制の対象とするモノではないことにもまた、気付いていない。このパターン、われらが宰相の憲法理解と相似、いや「合同」ではないか!
法廷の嘲笑を買ったのは「特定の政党」はどこを、どの党を想定したのかの質問に、3人が一様に答えに窮した、いや、喉まで出かかった固有名詞を必死に抑え込む息遣いが手に取るように感じられたからであろう。こうした思考(とも呼べない)過程の中から「『九条守れ』が公民館の考えだと誤解される」「集団的自衛権~」「公平中立の立場から~」のリフレーンとなったのだった。
そこにあったのは、歴史を逆行する政治・政権の意志に進んで囚われ、固定化した思考停止と過剰な慮り=忖度の芋づる式感染症、蔓延である。症状の実態とそのナンセンスさを市民応援団が論破して行く過程は、本編が示す通りだが、感染症の病原=「忖度」「公平中立」は各所に出没し、表現に始まる様々な自由を侵食し、その先の憲法、平和を蝕もうとしている。方々、油断なりませぬぞ。
(2017年3月9日記)

 

<「海老名市公民館での本編上映」アピール II >

  -「フラッシュモブ裁判」判決を受けて- 
 
昨日3月8日、横浜地裁で原告(市民)勝訴の判決があった。先に、このページで「事件と市条例、表現をめぐる状況の今を考える場を共有するために、現地=海老名市での本編上映」を呼び掛けたが、その「事件」の最終公判である。
「事件」は市内私鉄駅自由通路でのマネキン・フラッシュモブ=沈黙・静止状態で文言を記したカードを掲げる「グループ・パフォーマンス」=がデモ、集会、座り込みなどを全面禁止する市条例に違反とされ、市民の側はこれを「表現の自由への侵害」=違憲として提訴したもの。
 判決は当該パフォーマンスが条例に述べる「歩行者の安全で快適な往来に著しい支障をきたす恐れが強い行為」に当たらないとして、市側の禁止命令を取り消した。その点で、原告勝訴ではあるが、表現の自由、集会の自由を保障する憲法に照らした市条例の合/違憲性には触れていない。
 問題はこれからである。聞けばこの条例、市議会で22x4(❓=だと聞いた)の「圧倒的賛成多数」で可決されたという。そこでのキィ・ワードは「安全で快適な往来」―衛生無害なこの手の単語、本編に登場する二つの事件で聞く「公平中立」と同じだ。
 公の側のこうした“大義名分”用語が今、様々な場で忖度を生み、人びとを委縮させ、状況や政治への危惧を語ろうとする口を重くさせている。しかし、本編の登場人物たちが語るように、「安全や快適」「公平か、中立か」は「市民が判断するもの」「それを保障してくってのが公の側」である。「民主主義の世の中、行政にそんな権限はない」…のだ。
 公の側が生み出す忖度や大義名分は、気分で諮られるために説明も論理もない。いつも唐突で強圧的だ。そして、基本的人権にかかわる自由への暴力として現れる。その侵すものは表現に始まる様々な自由、人権、ひいてはこれらを保障してきた憲法。そして平和だ。
 再度問う―フラッシュモブ裁判は原告勝訴となったが、そもそもの発端となった市条例の「デモ、集会、座り込み」禁止条項の合/違憲は問われていない。「表現の自由」=基本的人権を侵す条例の合法性=適・不適を問う必要があるのではないか。本編上映を踏まえて、より多くの市民による話し合いの場作りとなる上映会を!―制作委からの提案です。
(2017年3月9日記)

 

<―海老名市公民館での上映に向けた協力の呼びかけ―>

 
 昨年2月、海老名駅自由通路でのマネキン・フラッシュモブ=沈黙・静止状態での意志表現=がデモ、集会を全面禁止する市条例に違反とされました。これを「表現の自由への侵害」として当事者が提訴。裁判は3月8日に結審の予定。
事件と市条例、表現をめぐる状況の今を考える場を共有するために、現地=海老名市内での本編上映実現に協力・参加を求めます。上映会場の候補・選定へのアドバイス、情報の拡散など力を貸していただける方は下記連絡先へアクセス、お申し出ください。
本編に登場する二つの事件の舞台は、都美術館とさいたま市公民館。
両事件の後も、改憲に向かう政権の意向を気遣う ‴公の側‴ の忖度が、表現、或いは、通常の市民活動を妨げる事件が後を断たない。
そこでの公の側の言い分は「公平中立を保つため」―その論理的虚構とそれによって脅かされる表現の自由、憲法、そして平和。そんな危うさと不条理に疑問を突き付け、抗い、論破していくひとびとの営為を今の状況を背景に映画は浮き彫りにしていく。
昨年暮れ、「九条俳句市民応援団」の主催により、事件の舞台=さいたま市三橋公民館で、本編の上映が実現。周辺住民が大半となった観客は、事件を聞き知っていたものの、俳句会・市民vs公民館・市教委との1年余りにわたる攻防を目の当たりにするのは初めて。会場では、公の側の論拠の希薄さと理不尽な対応に失笑、時に嘲笑が混じる。また、市民の側の主張には賛同の拍手が沸いた。
 この経験から、制作委は本編の新たな上映の場として、各地域の公民館、市民センターなど公的施設での上映を思いつき、その運動の形での展開を試みることに決めました。
その一環としての呼びかけです。
海老名市に限らず大和、座間、相模原、厚木、茅ヶ崎、藤沢など、近隣の方々の情報提供、積極的参加をお待ちします。
連絡先:e-mail: l_continua@yahoo.co.jp  045-479-1424(岩見)  070-4227-1549(松本)
(2017年2月12日記)

 

<映画「ハトは泣いている」上映協力・拡散への制作委員会アピール>

 
 本編は2014年に起きた二つの事件の1年余りを追ったドキュメンタリー(130分)。
・「都美術館事件」―同館の彫刻作家展に出品の立体作品に添付された現政権への批判的文言に対し右翼から脅しがあり、館側が作品の撤去を要請。
・「九条俳句事件」―さいたま市の公民館が「梅雨空に『九条守れ』の 女性デモ」の句を公平中立の場である「公民館の意見と誤解される」と月報「公民館だより」への掲載を拒否。
 両事件に止まらず、公の側の忖度が引き起こす類似の事件は後を断たない。
この忖度―お上の意向を伺う過剰な懼れや気遣い由来のために説明も論理も欠き、いつも唐突で強圧的だ。そして、基本的人権にかかわる自由への暴力として現れる。その侵すものは表現に始まる様々な自由、人権、ひいてはこれらを保障してきた憲法、そして平和だ。
 今進行するこうした状況に、本編の登場人物たちはそれぞれに向かい合い、考え、時に自問し、見る者に問いかける:
・彫刻家の目に映るドイツ―過去の負の遺産を引き受け、将来に受け継ご
 う とする国の決意。
・日系ドイツ人画廊オーナーの祖父が日記に記す帝国軍隊の暴虐の実態、
 国家への懐疑。
・九条俳句掲載を拒否し続ける市教委と対峙し続ける「市民応援団」。
 時に詰問に変ずる討議の過程は公の側の忖度とその論理的根拠の不在を
 露わにしていく。その過程はまた、市民の権利意識の自覚であり、憲法
 九条と平和擁護の再確認への道程だ。
 そして、映画は問いかける―戦後70年、この国が謳歌してきた平和は、既に腐り始めているのではないか?この時代、過去をどう総括し、憲法と平和を守るために私たちは何をするのか?そして、何ができるか?
 本編は昨年5月に完成後、できる限り市民・団体の手で上映をと強く望んできた。これに応えるように都内、さいたま市、横浜の各市民団体の手で13回上映された。その間に内容に共感した人たちの中からボランタリーに「上映をすすめる会」が立ち上げられ、制作委員会共々今年からさらに本格的上映展開を期している。
 中でも、昨年11月3日の「憲法公布70年」~今年5月3日「憲法施行70年」の半年を「首都圏同時多発プロジェクト」として上映とトークの会を進めている。これまでの会場は画廊、図書館、大学、公民館、市民ホールなど様々。
 お住まい地域公民館、地区センターなどでの上映・拡大への協力・参加をお願いします。
  「ハトは泣いている」制作委員会/上映をすすめる会     e-mail: l_continua@yahoo.co.jp
(2017年1月3日記)

 

<75年目の「赤紙」>

 
 茅ヶ崎市の市民運動をしている方々への試写を終え、駅構内に向かっているときのこと。
制作委メンバーの話に耳を傾けていたせいか、唐突に差し出された赤いチラシ。配っているのは3人の高齢女性―「75年前の12月8日、日本が戦争を始めた日です」 そうか「12月8日」だったのだ、明日は―。
 チラシの表には9条の条文、裏には原寸大(だろう)の「赤紙=あかがみ」のコピー=「歩兵第三十三聯隊への臨時召集令状」。三重県津市の男性の住所氏名。驚くのは召集の指定到着日時だ。「昭和拾六年八月拾五日午後参時」。丸4年後の同月同日、彼は、例のラジオ放送を聞けただろうか、どこで、そして、どんな思いで?
 この3日前、安倍首相はオバマ大統領との真珠湾訪問を発表している。曰く、「かつての敵同志を共通の利益と共有する価値観により結束させ、最も親密な同盟国に変えた和解の力を示す機会となる」「日米は世界の様々な課題に取り組む希望の同盟となった。その価値、意義は過去も現在も未来も変わらないことを確認する」―誇らしげに語る表情が見えるようだ。相も変らぬ対米盲従、学ぶことのないパックス・アメリカーナの能天気な受容。止まらぬ単語の浪費が生む文意の空洞化は重症化の一方だ!
挙げ句に「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。その未来に向けた決意を示したい」だって!まともに聞こうとすればするほど「二度目の戦争に参加しなければならない。そこに向けた決意を示したい」と聞こえてこないか。
 知性と歴史認識の欠如故か、75年前に彼の祖父を含む指導者たちがアジアに対して何をしたかは全く見えていない、見ようとしていないこの男が、真珠湾から戻ったら何を言い出すのだろう?
「中国は南シナ海のど真ん中に軍事施設を建設していいかとわれわれに尋ねただろうか」「我々の了解を得て米企業の競争力を削ぐような通貨切り下げをしているのが中国だ」―OKマーク(?)を作った右手をかざし、左手を聴衆に向けて得意気な表情のあの金髪男の言だ。
 年明け早々、米46代大統領となる男の元にいち早く参じたわれらが宰相共々に、東/南シナ海の緊張を高音域で謳い上げる危険なデュオにならねば良いが…と願うばかりだ。
 さきほどの赤紙、表には、幼児の男女のイラストに「ぼくたちはせんそうしない日本で生きる」「生命を生み出す母親は 生命を育て 生命を守ることをのぞみます」、裏面には「神奈川県母親連絡会」の署名があった。

 

<求む!上映協力への参加 ―制作委からのメッセージ―>

 
本編は5月に完成後、HPでご覧のように、都内、さいたま市、横浜で市民団体を中心に10回上映されました。特にさいたま地区はその半数を「九条俳句市民応援団」が提訴・公判を支えながら上映運営を担って頂いています。その過程で「憲法を考える映画の会」が都内上映を主催。その先で、両者を核にボランタリィな本編の「上映をすすめる会」が結成され、さらなる上映拡散の緒についたところ。
 一方で、制作委員会も主催上映をと挑んだのが先述の「10.30 上映とトークの会」―皆、制作現場の経験はあるものの初めてのこと―見かねた横浜上映を主催した団体有志の方々の協力で開場にこぎつけたところが、<閑古鳥…>という結果に…。電車の不通という事故に見舞われたとは言え、「経験に学ぶ」の教訓を確認した、と納得するのみ。
 
これを経て当面の目標とするのが神奈川県内「市域公民館での上映会」―「九条俳句事件」に限らず、「表現(の自由」」への制限=侵害が「公の忖度」によって市民活動の先端の場である公民館で頻出する今、その場での本編上映を通して「公民館」本来の役割を問い直し、市民の表現の場として再確認のキッカケ作りのねらいがあります。
「公の忖度」が誘引する様々な「表現の自由侵害」事件。その多くは先の戦争、歴史認識、政治の責任、人権、ひいては憲法、そして平和に直結する。そんな今の現実をどう考えるのかを観る人に映画は問いかけます。
「内部からいつもくさってくる桃、平和」―戦後70年を経てこの国が謳歌してきた平和はすでに腐り始めているのではないか―この映画の問いかけに共に考え、応えようとするひとたちの上映への参加と協力を強く求めています。
Tel: 070-4227-1549/045-479-1424 e-mail: l_continua@yahoo.co.jp
(2016年11月14日記)

 

<閑古鳥が鳴いていた!>

 
 この下にアップされた動画をご覧いただいただろうか。120人収容のホールがほぼガラガラの状態でのパネルトークだ。「ハト」の代わりに閑古鳥が鳴く会場を敢えて見せることにしたのは、パネルの真摯な報告内容と参加者との質疑応答のためだ。
 14:00開映を前に会場への唯一の足である京浜東北線の二つの駅で人身事故が相次ぎ、不通となる。特に関内駅での事故は会場への時間帯を直撃したと思われ、急きょ上映開始を30分遅らせたが、途中であきらめた人が少なからずあったと思われる。キャパの1/3ほどの入場者、上映後のトークも30分余りずれたために帰るひとが多く、その結果が、先述の画面だ。トークの概容をお伝えしようー。
 パネリスト3人は、それぞれ公(市・区)の忖度が誘因となって起きた事件の当事者で、各事件の概容を語り問題の周知と共有が主催側のねらいである。
 先ず「歴史を学ぶ市民の会・神奈川」の北さん。横浜市教育委員会による中学歴史副読本に掲載されてきた「関東大震災時の朝鮮人虐殺事件」の記述抹消。市域の中・高が使う社会科教科書を育鵬社版に統一採用を決めた市教委に対して、同事件抹消方針の追求と抗議、復元への取り組みが語られた。
 次は、栄区を基盤とする市民団体「ぶんぶんトークの会」の真矢さん。区が編集発行するタウンニュースに活動内容の紹介を求められ、提出した原稿が断りもなく改変された。「原発のない社会を目指す…」が「再生可能エネルギー社会の実現を目指す…」に書き換えられ、「憲法カフェなどのイベントも」が削除。区側は「分かりやすく紹介するため」という。どこが分かりにくいのか?‼ 
会員たちの抗議と東京新聞の記事掲載を受けて林横浜市長は「書き換えは不適切」と述べ、区がタウンニュースに謝罪文を掲載した。
 最後のパネリストは、本編に登場する「九条俳句の市民応援団」の坂木さん。この内容は本編に譲ることにー。
 さらに、「記憶の継承を進める会」が会場から参加。教科書パネル展などへ日本会議の市会議員がクレームをつけたり、この種の展示への攻撃のあることが報告された。
 
 公の忖度による事件は後を断たない。そこでは、表現に始まる様々な自由への制限、圧迫、ひいては基本的人権への侵害がある。政治を語ったり、「憲法」や「平和」を口にするのをためらうような風潮に掉さし、沈黙と傍観から脱することが今、求められていることをパネルが語りかけている。詳しくは、ビデオ・リポートをどうぞ。
(2016年11月9日記)

 

動画視聴はこちら

「ハトは泣いているトーク20161105」

 

<10.26 三橋公民館上映:純化される「九条句」>

 
「九条俳句市民応援団」主催で「事件現場」=三橋公民館での上映が実現した。応援団メンバーがじゅうたん作戦で周辺の戸口にチラシを投げ入れた結果、ウィークデー14:00からの上映にご近所30人余りの来場となった。地元だけに事件を知る人は多いが、市民と市教委との交渉の現場は初見だ―忖度が招いた掲載拒否のわけを臆することなく糺す市民への共感の笑い、誰が聞いても納得できない市教委の「公平中立」の論拠の無理に会場の嘲笑が沸く。
 それにしても問題とされた句「梅雨空に 九条守れの 女性デモ」は、時の経過と共に〝純化‴されてきているように思える。
「電光ニュースで流れ過ぎていくような句」と作者は言うが、ホント、単純素朴に情景を詠んだこの句のどこが問題なのだ❓‼というのが大方の感想ではなかったか。だが、俳句会員の過半数によって、この句が互選された事実を思い返すと、別なものが見えてくる。
ほぼ皆が「後期高齢」の句会員は、この単純な五七五の連なりを前にしたあのとき、時代に漂い始めた危険な空気を直感したのではないか。遠く、忘れていた、切れかかっていた記憶の糸が唐突にピーンと張る音を聞いたような―。
 一方、「事件」と報じた新聞、これを「表現」への横暴と受け止め、何やら不安を覚えて掲載拒否の理由提示と不掲載の見直しを求める市民の運動は、「憲法九条」―改憲への危機感に促されて提訴に向かう運動に発展、今なお審理は続いている。
 だが、多数を恃んだ政治が安保法案のゴリ押し、改憲=平和憲法放棄を射程に捉え、「軍隊」「派兵」が現実的になった今、ノンポリと同義語だった若者が抗議の声を上げ、ほぼ半世紀ぶりに国会を取り巻く大衆的うねりの中で、句会員が聞いた糸の「ピーン」を耳底に感じた人は少なくなかったはずだ。
 この音の可聴域の広がりは、あの句を推した句会員の感じた危機感の広がりに違いない。ここにきて、句が喚起する危機感を思う時、今進行する状況が、この句の純化を加速していくように思える。「ピーン」の響きは加齢による幻聴ではないのだ。
「幼い頃、戦争を体験している私は、この70年、九条に守られて平和に暮らしてきたことをありがたく思っています。…」(原告の意見陳述)
 原告として提訴の法廷に立つ句作者の感性が呼び覚ました「ピ-ン」をより鮮明に聞き取るために、耳を澄まそうではないか。
(2016年10月29日記)

 

<記号としての「ハト」=Doves vs Hawks>

 
上映後、会場での質疑の時間で意外だったことに本編タイトルの「ハト」がある。
「ハトが出てくると思っていました」との縁日の人寄せ手品を思わせる発言は、映画を見終わった段階でその期待(?)は解消されたと思う。
予期せぬ発言だったのが、「タイトルにあるハトの意味が判りませんでした」である。
「えぇっ!!との一方で映画を見終わった後の疑問であるだけに、些かショックであった。どうやら、「平和の象徴としてのハト」=「記号化されたハト」を知識として持っていないのだ。ということは、ハト派・タカ派という単語もご存知ないということになるか。この発言、実は会場を別にして2回あり、一度は明らかに若者世代の男性、2度目は白髪を帯びた女性であった。

 単に年齢層だけで判断はしかねるものの、後者は別の意味で予想外=よく判らない。
前者の場合、「記号としてのハト」は、既に意味を持たなくなっているのだろうかとの疑問が湧いてくる。戦後70年、史上稀とも言われる長期の平和に浸りきっている日本である。その間に平和であることの有り難さなど最早失せているのかもしれない。敗戦後間もなく専売公社から発売されたたばこ「ピース」は、文字通り、日中~第2次大戦に倦み疲れた日本人が深い反省と決意を持って望んだ「平和」に違いない。
若者の「意味が判りません」は、本編中で中垣氏がいうように、この国の保守政権が意図してきた教育の成果なのだろう。過去を隠蔽する一方で、政権は教育面で「国際化」だの「国際人の育成」などの言葉を弄する。過去を総括することなく未来を描くことなどできようはずはなく、周辺の国々との信頼に基づく友好なくして「美しい国」など成り立ちようもないのに。
歴史認識と知性を欠いた男を首相に戴くことで、記号化されたハトの姿はますますおぼろになって行く――今、ホントに「ハトは泣いている」のだ。
(2016年10月22日記)

 

「九条俳句違憲訴訟 国賠提訴から1年」

(「ハトは泣いている」映画制作に当たって)
 
 定員150の会場はほぼ満席。「提訴1周年」取材の記者たちは壁面に置かれた椅子でやっとノートPCを広げられる態である。映画はやはり、ガラガラよりも席の埋まった状態で見る方が制作者側としてはホッとする。今回は、地元ということもあって、観客の反応がいい―スクリーンへの反応が率直でなお且つ、熱い。
 本編の撮影に先立って「俳句事件」の市民団体にコンタクトしたのが2014年8月。事件と状況に関する基本認識を確認して、カメラが回り始めたのは9月末の市民集会からである。一方、当事者である俳句会の方々へも企画のねらいを説明し、基本的了解を得ながら撮り進めることになったが、当分の間はどこか胡散臭げに見られていたようだ。集会の後で会話を重ねる中でお互いの距離も縮まったようだが、打ち解けるようになったのは、こちらも俳句会に出て即席の五七五を並べてからだったろう。
 撮影は翌年の提訴まで、1年4カ月に及んだ。その時間は、8人の市民の声かけで始まった「俳句掲載拒否を考える市民の集い」が「九条俳句市民応援団」、そして「九条俳句違憲国賠訴訟を市民の手で!実行委員会」への変貌の期間であり、俳句会員にとっては、サークル活動で場所を借りているだけと思っていた公民館が、「単なる情景を詠んだだけの俳句」を理不尽にも否定する『公』民館であり、そんな民主主義を損うことを平気で押し通す力と「何かおかしい」状況への気付きを促される1年余りだった、といえるようだ。
映画は、「俳句事件」とこの5か月前に起きた「都美術館事件」それぞれのほぼ同時間を交互に追って展開する。後者は、同館での彫刻作家展に出品の立体作品に添えられた現政権に対する批判的文言に右翼の脅しがあり、これを受けて館側が作品撤去を迫ったもの。問題の作品はその後、ドイツ、ベルリンの画廊から招待を受け、現地で2か月間展示された。そこで芸術家の眼に映るドイツの歴史の記憶と後の世代への伝達を日本のそれらに照らし、この国の過去と今直面する憲法の現状への問いかけを発している。
 映画の中で、両事件は必然的に出会いの場を得ることになるが、制作に当たっての関心は、双方の背後にちらつく公の側の「忖度」であった。この忖度は、以前にも「慰安婦」写真展の中止、「はだしのゲン」の学校図書館からの撤去、漫画「美味しんぼ」の鼻血描写への閣僚の不快表明などの事件を引き起こし、今も各地に浸潤している。侵されているのは表現に始まる様々な自由、人権、ひいてはこれらを保障してきた憲法…。
詩人、茨木のり子はいう―「内部からいつもくさってくる桃、平和」―戦後70年、この国が謳歌してきた平和は既に腐り始めているのではないか―映画の問い掛けである。
<ドキュメンタリ―演出 松本武顕>

(国賠ネットワーク NO.160 2016.7.9より)