ノート

Pocket

これまでの問いは、図書館全面閉鎖に対して先ず、オンライン、電話などでの予約と
貸し出しの再開を求める一方、現状が「緊急事態宣言」「自粛要請」

そのままに、社会教育・文化施設としての役割を不問のまま、市民サービスを放棄し
たかの行政にその説明を求めることでもあったが、回答となる内容は皆無。

やっと判ったのが、今回の閉鎖は、コロナ禍を受けて、「横浜市新型コロナウイルス
対策本部会議」の管轄する「オール横浜市としての対応」だということ。

つまり、林市政の下、公的施設をひっくるめた中に図書館のサービスも含まれ、一斉
停止とされているということ。

そこで、改めて市長に宛てての要望書となった次第―:

2020年5月21日

林文子横浜市長
「横浜市新型コロナウイルス対策本部会議」

要 望 書
市立図書館の閉鎖(予約・貸出/返却=出納業務停止)の即時解除

表現の自由を市民の手に 全国ネットワーク

4月10日以降、表記出納業務停止が2か月に及ぼうとしている。中央図書館にその理由と当面の部分的再開を求め、6回のメイル交信。これらを経て18日、同館企画運営課、サービス課各課長を含む関係課職長5人と面談。この経過で確認された閉鎖理由は―:

●閉鎖は、国の「緊急事態宣言」「自粛要請」と「県の実施方針」を受け、「横浜市新型コロナウイルス対策本部会議」で確認された「オール横浜市」の市民利用施設での取り組みに対応したもの。館としては、本を借りに外出する人の感染リスクを考慮、公の施設に求められる市民の安全を最優先しての閉鎖決定とその実施である。再開に向けて調整中ながら今後のスケジュールは未定。

<閉鎖理由への疑問>
閉鎖以降、中央図書館に限っても多いときに1日50件近い問い合わせがあったと言う。市内に18館の数からすると不自由、不便を感じる市民の数は決して少なくはあるまい。
最大の疑問は次の2点:

Q1. 国からの「宣言」「自粛」を受けて「市民の安全」「市民の命と生活」などが繰り返される一方、社会教育の一環を担う公的施設として、市民の知的・文化的ニーズに応え、資する役割を負う「図書館の役割」と「市民サービスの中断」という矛盾への認識、これへの対応が一貫して語られないことだ。お上の通達の前に本来の職務を放棄したのか?

Q2. 私たち市民には「知る権利」「学ぶ権利」があり、社会教育面での「大人の学習権」も担保されている。日常的に閉鎖的時空間を強いられる今、市民にとどまらず、長期休学状態にある児童、生徒もまた、本、読書への欲求、ニーズの強まりは、前述の問い合わせによく反映していると言えよう。この広範なニーズを憲法(15条)に照らせば、館の対応は「全体」ではなく「一部の奉仕者」になってはいないか?
<疑問に付帯する状況認識>
「宣言」は、外出禁止令ではない。日常生活に必要な買い物はじめ、医院・病院など医療機関への往来、オンライン対応ではかなわない仕事の通勤は認められ、公園などオープンスペースでの運動は勧められてもいる。つまり、日常生活面における時空間での外出の許容範囲はあり、或いは用意されている。
今回のコロナウイルスは、インフルエンザのそれと異なり、自粛要請は感染防止の要諦を「3蜜」の回避としている。開架スペースでの閲覧利用「制限」は「3蜜」空間を構成する可能性があるため、限定的閉鎖は合理的と理解される。他方、オンライン、電話予約などによる出納サービスを続ける館はある。
「緊急事態宣言」「自粛」によって日常に生じる閉鎖的時空間は、生活の場でのストレスを強め、少なからぬトラブル、事件、DVなどの引き金となっている。こうした状況に、読書が精神的安らぎ、清涼剤、或いは、知的刺激・充足の役割を果たすことは広く認められていると言える。

<付帯的質問と要請項目>
公的施設としての図書館の全面閉鎖を是とする法的根拠はあるか? それは何か?

2.「宣言」前、県立図書館も同様の、開架スペースの閉鎖と館内への出入り制限はあった
が、出納業務は続けられている。
県と市との行政上の違いは承知。が、県立図書館は、郵便による出納業務は続行。
実施中の全面閉鎖に代わる出納継続の選択肢はなかったのか?
全面閉鎖に至る検討過程を説明、或いは、公表を求める。

3.「市民に図書館利用のための外出自粛をより徹底」というが―:
オンライン、或いは、電話予約による出納場面で「3密」が発生する可能性は低い。
多少あったとしても、一定間隔を置くよう求めれば済むこと。早速の実現を求める。

4. 5月4日、コロナ禍への基本的対処方針の変更が政府表明にあり、博物館、美術館、図書館の開館に向けての対応が述べられている。市立図書館において先ず、前述のオンライン、電話による予約、貸し出しの早期再開を求める。また、業務再開に向けたタイムテーブルの公表も。

表現の自由を市民の手に 全国ネットワーク

<どうする、横浜市民?>

2020年5月11日

田雑由紀乃横浜市立中央図書館長

市立図書館の閉鎖=予約・貸出/返却出納業務停止について

4月10日以降、現在も続く表記の出納業務停止について、その理由を問うまつもと名での2度のメイルにそれぞれ回答をいただきました。交信文面を添付=資料 1
回答の要旨は、下記2点と言えますー:
今回の「特措法」(→「緊急事態宣言」)とこれに基づく「県の実施方針」に沿った当該「施設に対する使用制限、停止等の措置を講ずる要請」に対応。
「感染症の防止、市民の命と生活を守るために外出の自粛を願い、サービスを休止」

上記交信の傍ら、さいたま市立図書館でも同様の全面閉鎖が続いており、同市民有志が再開を求める話し合いを同中央図書館と進めています。彼らの多くは、当方もその一員である「『表現の自由』を市民の手に 全国ネットワーク」(「表現ネット」)のメンバーであることから、交渉に関わっております。この経過を報じる新聞記事(3紙)を添付=資料2

前述の当方がいただいた回答は2信とも述べる内容は同じで、当方の質問事項への回答になっておりません。従って、前回の質問を整理した“再々質問”を「表現ネット」として提出します。これへの回答として、再三の繰り返しを避けるため、今週の14(木)~16(土)のいずれかに面談による説明の場を設定願います。時間は一任し、連絡をお待ちします。

<状況認識―“再々質問”を前に>
進行するコロナ禍において、従来の開架スペースでの図書館利用「制限」は、「3蜜」に当たる空間を構成する可能性があり、限定的閉鎖は合理的と理解する。
一方、「緊急事態宣言」「自粛」によって日常に生じる閉鎖的時空間は、生活の場でのストレスを強め、少なからぬトラブル、事件、DVなどの引き金となっている。こうした状況に、読書が精神的安らぎ、清涼剤、或いは、知的刺激・充足の役割を果たすことは広く認められていると言える。

また、「宣言」は、外出禁止令ではない。日常生活に必要な買い物はじめ、医院・病院など医療機関への往来、オンライン対応ではかなわない仕事の通勤は認められ、公園などオープンスペースでの運動は勧められてもいる。つまり、日常生活面における時空間での外出の許容範囲はあり、或いは用意されている。これを踏まえて―
<“再々質問”>
1.公立図書館は、市民への社会教育の一環を担う公的施設として市民の知的、文化的ニーズに応え、資する役割を負っている。出納業務停止=閉鎖は、この役割放棄にあたるのでは?
a.社会教育施設としての役割と今回の全面閉鎖の合理性の有無をどう認識する?
b.また、この役割放棄を促す、或いは、是とする法的根拠があれば、列挙下さい。

2.「宣言」前、県立図書館も同様の、開架スペースの閉鎖と館内への出入り制限はあった
が、出納業務は続けられている。
a.出納業務閉鎖と市民へのサービス(憲法15条)の整合性をどう理解する?
b.県と市との行政上の違いは承知。が、県立図書館は、郵便による出納業務は続行。
実施中の全面閉鎖に代わる出納継続の選択肢はなかったのか?全面閉鎖に至る検討過程を説明、或いは、公表を求める。

3.「市民に図書館利用のための外出自粛をより徹底」とあるが―:
a. 図書館が「市民に対して外出自粛を願う」ことと出納業務停止との合理性は?
b. オンライン、或いは、電話予約による出納場面で「3蜜」が発生する可能性は低い。
多少あったとしても、その場で一定間隔を置くよう求めれば済むこと。ご意見を。

4. 5月4日、コロナ禍への基本的対処方針の変更が政府表明にあったが、これへの対応、或いは、業務再開に向けたタイムテーブルは?
以上。

いうまでもなく、私たち市民には「知る権利」「学ぶ権利」があり、社会教育面での「大人の学習権」も担保されています。
今回の「宣言」「要請」がこれらを制限,規制するものでないことを確認くださり、市民の知的、文化的欲求とニーズに応える図書館本来の機能と役割への早期帰着を望みます。
前記面談の日時設定の連絡をお待ちします。

<おかしいぞ! 図書館閉鎖>

コロナ禍を受けて発せられた「緊急事態宣言」―既存の「特措法」で事足りるはずが、想像力と哲学を欠いた首相初め諸先生方は「緊急」に圧されるまま、審議を尽くせず、4月7日、発令となった。わけが判るはずもない世の中は「緊急事態」に取り込まれたまま、とにかくいつも通り、お上の言うまま忖度はもちろん、今回は「自粛」を念頭に、吹きすさぶ嵐に身をかがめ、災厄の通り過ぎるのをひたすら待つ風情だ。

そこで問題は、あちこちで頻発している図書館の閉鎖=貸出・返却の出納業務の停止だ。
●地元=横浜市立中央図書館への質問 4.14:
「宣言」は「要請」であり、宣言自体が、市民の文化的ニーズに応えることを封じているわけでもないのに何故?
●図書館の回答 4.17:
国の「緊急事態宣言」を受け、市民の皆様に、図書館利用のための外出も自粛いただくことをより徹底していただくため」

進行するコロナ禍において、従来の開架スペースでの図書館利用の制限は、「3蜜」のいずれかの空間を構成する可能性があり、「宣言」前の限定的閉鎖は合理的と理解する。
一方、「緊急事態宣言」は、外出禁止令ではない。日常生活に必要な買い物はじめ、医院、病院ほか医療機関への往来、オンライン対応ではかなわない仕事の通勤は認められ、公園などオープンスペースでの運動は勧められてもいる。つまり、日常生活面における時空間での外出の許容範囲はあり、或いは用意されているのだ。

これを踏まえての再質問―:
1.公立図書館は、市民への社会教育の一環を担う公的施設として市民の知的、文化的ニーズに応え、資する役割を負っている。出納業務停止=閉鎖は、この役割放棄に当たるのでは?
a.社会教育施設としての役割認識と今回の全面閉鎖の合理性の説明を求める。
b.また、この役割放棄を促す法的根拠があれば、列挙下さい。

2.「宣言」前、県立図書館も同様の、開架スペースの閉鎖と館内への出入り制限はあった
が、出納業務は続けられている。
a.出納業務閉鎖と「宣言」との合理性はどこにあるのか?
b.県と市との行政上の違いは承知。が、県立図書館は、郵便による出納業務は続行。
実施中の全面閉鎖に代わる出納継続の選択肢はなかったのか?全面閉鎖に至る検討過程を説明、或いは、公表を求める。

3.「市民に図書館利用のための外出自粛をより徹底」とあるが、図書館が「市民に対して外出自粛の徹底」を求める、或いは、関わるのは分不相応、或いは、畑違いと思われる。そのような役割を認める/許す法・規定があるなら例示願う。

以上は、市民のひとりとして、今回の全面閉鎖に対する質問である。
いうまでもなく、私たち市民には「知る権利」「学ぶ権利」があり、社会教育面での「大人の学習権」も担保されている。
今回の「宣言」がこれらを制限,規制するものでないことを確認くださり、市民の知的、文化的欲求とニーズに応える、という図書館本来の機能と役割への早期帰着を待望する。

政権の思惑がチェエクされぬまま、宣言を受けて、戒厳令化の空気が地域行政と市民の間に浸透しつつあるのを懼れる。 同様の事態=対応があちこちで起きているようだ。
地元の図書館の対応をチェックの上、ご意見を。

<令和版 相模国風土記 逸文>

相模の国に住まふ法師、近頃、都より聞こゑ来る流行り病につき記さんと。
その名はコロリ、いやコロナとかやいふ。
それなるコロナ禍に立ち向かわんか、「戒厳令」気取る都のをんな帥(そち)に押さるるがごと、時の宰相の発せし宣言(のりごと)あり。これ「緊急事態宣言」とかいふ。

かかる宣旨(せんじ)を前に、かの宰相、日頃より浅慮で世に知らるるをえ憚らで、昂(たか)ぶるこころ抑え難きに加へ、カ行の音上(うわ)ずる発音の癖も加わりたるらむ、宣(のたま)いしかの「緊急宣言」。
宰相が意図せしは「緊急(きんきゅう)」に相違なけれど、あまねく世に広がる生業(なりわい)の格差故ならむ、都(みやこ)びとの多くは「貧窮(ひんきゅう)―」とのみ聞く。

軽薄なる上つ方の宜(のり)し言(こと)の葉(は)、世の流れのままに民に沁み入りたるぞ、あはれなる。怪しかりしことなれど、をかしとも伝ふ。

そこで浮かびたる一首―:
令和の世  宰相宜(のり)し「緊急」を  「貧窮」と聞く 世の人あはれ
土岐乃省三法師

西方の暦に従ふに、二千二十の歳卯月七日

<どうする、茅ヶ崎市民? その6>

―やっと行動開始、市民団体―  2020.2.14
昨年1月、神奈川県茅ケ崎市で起きた「表現の自由」阻害事件を発端に、表題の問いかけをその後5回FBに綴った。
そこで「茅ヶ崎事件」と呼んだ不祥事が、本編中の二つの事件の「相似」というより「合同」とも言える内容と顛末だったこと。事件当事者の市教委がわずかひと月前(2018.12.23)に、最高裁で「原告勝訴」を以て結審した「九条俳句事件」判決に自治体として何も学んでいないことに驚き、「問題だっ!」と思ったことがFBへの連続5回記載の引き金iだったろうか。
その後の経緯は省くとして、ここにきて事件と取り組んできた市民団体がやっと、市教委に「公開質問状」を提示、記者会見を予定するに至った。
問題はこれからだが、所かまわず頻発する「公」による「表現の自由」への脅威に対する市民のアクション第一歩には違いない。
頻発する「表現の自由」侵害、誘因となる公の側の忖度とそこに露呈する論理の不在。その背後にこの国が戦後一貫して無視、或いは、避け続けてきた過去の歴史総括への怠慢を問いかける本編「ハトは泣いている」―前記茅ヶ崎市民団体による「公開質問状」は、2020年2月26日、このHP「お知らせ」欄に掲載いたします。お楽しみに。

<おかしいぞ、横浜市地区センター>

―連鎖上映会で学んだこと―

今回の連鎖上映会、制作委4人は横浜市内の地区センター(公民館はない)を上映会場として、利用申請、チラシ配架など館側と話し合いを持った。そこで、「九条俳句」の最高裁確定判決がかかる場でほとんど学習、周知されていない現実を再認識することになった。

あるセンターで「映画会」と切り出してのこと―「どんな映画?」と聞かれ「表現の自由を扱った…」。とたんに係員が緊張の面持ち。「内容は?チラシか何かありますか?」チラシを持参してなかったので、オンラインでHPがあることを告げると、素早い手つきでスマホを繰る。と、共催の欄に「憲法を考える会」の名を発見。「あっ、憲法!… 少々お待ちください」と奥へ。
お分かりだろうか。「表現の自由」「憲法」の2語でこの反応!結局、館長との話し合いでOKとなったが、先の係員、申請書の余白に「館長了解」と注記した。
他の2館では「チラシは市の後援を得ないと配架できない」「利用団体が多く、市の広報しか配架できない」オンラインでのイベントリストへの掲載を求めると「登録団体が多く、市の催し以外、掲載スペースを閉ざしている」など。
これらは明らかに違法と言える。地方自治法244条では「公の施設」で正当な理由なく住民の利用を拒んだり、不当な差別的取り扱いが禁じられているのだ。
市域の全中学校で育鵬社版の歴史教科書採用を決めた市長への忖度かと思えるほどの公共性無視だ。

ここ10年近くになろうか、公的施設で正当な理由なく、住民、市民の利用禁止、展示、掲載などの拒否事件が続発している。そこでは、しばしば「憲法」「平和」「原発」「沖縄」「天皇」などの語が垣間見える。その延長上に「あいトレ」「しんゆり映画祭」「伊勢市美術展」と事件の連鎖を見れば、最早流行り病と言っていい。

世の中に目を背けることで公的施設の利用が可とされるような不文律が実体を持ったら民主主義も表現もあったものではない。
「政治的中立」のウソを暴き、「大人の学習権」を確認、「表現の自由」への基礎を提供した九条俳句裁判の成果を改めて、この危険な流行り病のワクチンとせねばならぬ。

<業平も嘆く? 令和「桜」騒動>

福島はなお、台風もまた、被災回復は遅れたまま、かの在原業平だって尻込みするだろう「桜」騒動ときた。
久しぶりの学生時代の仲間と再会―世の中を眺めやれば、いつの間にか年寄りの渋い顔が並んでの嘆き節が行き交う。

そんな近況への狂句を・・・:

★「徴用工」 政府の辞書では 「労働者」
★ 文科相 なっても測れぬ 己が身の丈
★「ガソリン缶」 不自由募らせ 展示の尾張(終わり)
★「表現」に 轡(くつわ)かませる 「予算検討」
★ 御真影 令和と共に 復活か!
★ 長いのが 罪と知らぬは あの男だけ

―「ハトは泣いている」―  11.26, 2019

「あいち事件」違和感 IV

―既に検閲…―

表題IIで、今回の「不自由展、その後展」の「検閲」について述べた部分を再録する―:

開会当初から“事件”は「検閲事件」展なのだ―作品の多くは以前の展示の場で、既に「表現の不自由」を強いられている。それも表現への臆面と忖度が行き交う公的な場でだ。言い換えれば、公による“検閲 (censorship)”の屈辱を経ているのだ。主催者と実行委にこの前提(認識)があったか、見えない

一昨日、”表現ネット”主催、同展の再開を求める集会での憲法学者の明快な報告があった。そこでは「文化芸術基本法」を援用して、当該事件では、憲法21条の「表現の自由」と同時に同2項の「検閲の禁止」も読み込むべきだという。その趣旨を要約すると―:
この検閲は、公(国や自治体)が、表現内容に立ち入って行う審査や許認可を指し、とりわけ、不許可という決定がなされ、一般社会とその表現物との間に、市民の意思によらない【遮断】が持ち込まれてしまったときには、もっとも重大な検閲の問題となる、と指摘する。さらに、作品がある公人からみた価値観や、好悪の視点で見られるべきではなく、そこにできあがった《芸術の空間》を全体として守るべき。作品の良し悪しは、見た人々に語る権利があるので、公がその機会を奪うべきではない。特に、作品の置かれた政治的文脈をいったん脇に置く、これが「行政のとるべき政治的中立性」だ。とりわけ、芸術の世界では、日ごろ当然と思っていることを視点を変えてみることが重要で、そこでは自覚的に、多様性の尊重、価値相対主義がとられるべきである。ここでは何が政治的中立で何が偏っているか、ということを誰かが決めることはできないし、それをしないことに意義がある、という。

現状に即していえば、問題展の作品の多くは前もって「市民の意思によらない【遮断】、即ち、「検閲」を受けていたのだ。そして今、それらは再度の検閲にさらされている。
「再開」の意味を再確認すれなら、主催者である公の側に「行政のとるべき政治的中立性」を保ち、市民に立ちはだかる「遮断」解除を求めることになる。
重ねて確認すべきは、権力への異議を明快にした表現が保障されないところに「表現の自由」だけがポカっと存在するわけがない。公の言う「中立」「公平」が保障する自由ではなく、表現主体の主張し得る自由が見えてこそ、「表現の自由」を得ることになる。

「あいち事件」への違和感 II

<問題「展」が伴う検閲の既視感>
“事件”発生からひと月。展覧会主催者、左右を問わぬ外からの「表現の自由」への物言い、「再開」要求、…様々な声が響き、止まない。

事件の予兆は開会初日に報じられた芸術監督のツイッターに既にあったはずが、主催側と当該展実行委員会に事態への問題認識と危機意識、当事者感、或いは、当事者意識に基づいた怒り、憤りの表出は、希薄。事件をどう理解し、対応するのか、出展作家への報告・再開への提案・方針も明示されぬまま今に至る不可思議。
もしや、問題「展」自体を「表現の不自由」“事件”につながる作品の「見世物小屋」にしただけだったのでは、とさえ見えてしまう。

開会当初から“事件”は「検閲事件」展なのだ―作品の多くは以前の展示の場で、既に「表現の不自由」を強いられている。それも表現への臆面と忖度が行き交う公的な場でだ。言い換えれば、公による“検閲 (censorship)”の屈辱を経ているのだ。主催者と実行委にこの前提(認識)があったか、見えない。

<事件の露出するもの>
主催者側は、展示の閉鎖を検閲とは認めないようだ。が、事件へのプロセスは―:
直前の「大量の抗議」=電話・メイル・ファックス、「ガソリン缶持参」の脅迫などを受けて、会場・鑑賞者の安全確保への不安を理由に閉鎖宣言。
すかさず起きた名古屋→大阪各市長⇒政権官房長官→神奈川県知事など、財政支援を質ネタとする政治圧力の輪唱。その怒声を交えた歌唱をたどると、「平和の少女像」を「慰安婦」へ恣意的誤訳、昭和天皇を配した作品にヒロヒトの戦争責任を深読み。イチャモンに等しい罵倒を「国民感情」の発露と強弁。そこに、カネも口も出すスポンサーたちの歴史事実の否定・歪曲の声。直ちに、数オクターブ高まった裏声でナショナリズムへ転調、そのままドサクサ狂騒曲へ収斂、といったところだろう。

事件の誘因は、過去の歴史に封じ込めた古傷(「徴用工」)の疼きに耐えかねた政権の対韓措置=ホワイト国リストからの除外だったと言っていい。そして今、目前にあるのは、表現に「合法的検閲」の枷を嵌めようとする政権の強い意思である。

<展示再開は何故、必要?>
閉鎖への引き金は、前述2作品への保守エレメントによる短絡的反応、ヒステリックな罵声。続く「語るに落ちた」というべき、脛にキズ持つ身がひとり合点で己が罪をフラシュバック、取繕うすべもなく、脅しにかかった怒声と八つ当たりが面前の体たらく、と言えよう。そこには表現者と作品に向かい会う姿勢も感応への意思もない。独断で暴発したヒステリー、その結果が、「閉鎖」なのだ。

閉鎖の継続は、表現者と作品に対する声高で攻撃的な言辞と脅迫など、横暴の受容にほかならない。その先は、政権の意向を伺う忖度の蔓延、表現の自己規制。やがては、言論・表現の自由をはじめとする基本的人権とこれに関わるあらゆる自由への暴力の黙認、不感症を見ることに…。
こうした危機感に基づく、表現への横暴と暴力の否定決意表明として、現状を問う公開討論、これを経ての同展再開を求める。

再確認として、権力への異議を明快にした表現が保障されないところに「表現の自由」だけがポカっと存在するわけがない。公の言う「中立」「公平」が保障する自由ではなく、表現主体の主張し得る自由が見えてこそ、「表現の自由」を得ることになる。

加えて、閉鎖につながる作品攻撃の拠り所とされた先の侵略戦争に関わる事実の恣意的誤読と強弁を歴史修正主義の表出と危ぶみ、特にその歴史的総括と教育への早期反映を緊急課題として共有、提起すべき時との確認も必要だ。

「表現の不自由展」への違和感

「あいちトリエンナーレ2019」での上記展覧会場で、来場者が作品の写真と動画をSNSに投稿することを禁止すると掲示されたとのこと。主催側の芸術監督は「表現の自由がテーマだけに自由に写真を投稿してほしいとは思うが、イベント全体の安全管理に責任がある」 つまり、「ネットの炎上」が進行し、展示会の安全にまで影響が及ぶことを避けるためだという。展示作品は、3年前の同名の展覧会同様、慰安婦、先の戦争、天皇、憲法九条、現政権への批判などで問題/事件となったようだ。が、気になるのは、当時感じた“違和感”を今回の「禁止」報道にも覚えてしまうことだ。

「表現の自由」への制限、侵害「事件」となった作品を展示するのはよしとして、問題はその意図だ。この時期、「こんな作品が事件になったよ」「『表現の自由』の現状はこうだよ」と見せるのであったら、河童やろくろ首をならべた見世物小屋と大差ないように思えるのだが…。言い換えれば、主催者は、それぞれの作品・作者とどう連帯するのか、同じ地平で問題=表現への加害・侵害を受け止める覚悟があるかどうかが、いまひとつ見えないということかもしれない。
「ネットの炎上」―良い宣伝になるではないか。「展示会の安全への影響」―「影響」のイメージは不明ながら、その影響を作者・作品と共にどう引き受けるか、主催側内部での確認の有無が問われているのではないか。

’60年安保デモでのことだそうだ。国会前の座り込みに警官隊がごぼう抜きをかけた時、「何をするんだ!ここは大学の教授団ですぞ!」声の主は、当時テレビで威勢よく世の中を切り刻んでいた”評論家”先生。今もメディアに散見し、メディアも“芸人”同様重宝がる手合いだ。

「表現の自由」は誰でもいえる。いま問われるべきは、表現を閉ざそうとする作品に対する加害を被害の側で受け止め、作者の「表現の自由」侵害を基本的人権への暴力として、その隣に立とうとする意志の表明ではないか。
権力への異議を明快にした表現が保障されないところに「表現の自由」だけがポカっと存在するわけがない。公の言う「中立性」が保障する自由ではなく、表現の主体を主張し得る自由こそ今、確認し、求める時ではないだろうか。

―「ハトは泣いている」―  8.2、2019

純化される九条句(改訂)

「公民館だよりへの掲載はできません」―あれから4年余り、やっとたどり着いた最高裁判決」―勝訴!
事件は「九条」の語に過剰/異常反応した行政の末端に始まるが、消耗とも思えたその後の時間、政治は、武器輸出3原則全面見直し、集団的自衛権行使容認、特定秘密保護法、通信傍受法改定、共謀罪強行採決、……時代は確実に逆行している。そんな状況に翻弄されたかに見えたあの句は今、純化され、逆流を圧しとどめる堰にも似た、象徴性を帯びてきているように思える。

「梅雨空に 九条守れの 女性デモ」―「電光ニュースで流れ過ぎていくような句」と作者は言うが、ホント、単純素朴に情景を詠んだこの句のどこが問題なのだ❓‼というのが大方の感想ではなかったか。だが、俳句会員の過半数によって、この句が互選された事実を思い返すと、別なものが見えてくる。

ほぼ皆が「後期高齢」の句会員は、この単純な五七五の連なりを目にしたあのとき、時代に漂い始めた危険な空気を直感したのではないか。遠く、忘れていた、切れかかっていた記憶の糸が唐突にピーンと張る音を聞いたような―。
一方、「事件」と報じた新聞、これを「表現の自由」への横暴と受け止め、何やら不安を覚えて掲載拒否の理由提示と不掲載の見直しを求める8人の市民から始まった運動は、「憲法九条」―改憲への危機感に促されて「市民応援団」に集結。護憲を共有しつつ、原告と弁護団を支えて続けた。

多数を恃んだ政治が安保法案のゴリ押し、改憲=平和憲法放棄=を射程に捉え、「軍隊」「派兵」が現実味を帯びていく中で、句会員が聞いた糸の「ピーン」は状況を映す通底音となって人びとの耳底にこだましたのではなかったか。
この音の可聴域の広がりは、あの句を推した句会員が感じた危機感の広がりに違いない。ここにきて、句が喚起した危機感を思う時、今進行する状況が、この句の純化を加速している。「ピーン」の響きは加齢による幻聴ではなかったのだ。

「幼い頃、戦争を体験している私は、この70年、九条に守られて平和に暮らしてきたことをありがたく思っています。…」(原告の意見陳述)
原告として法廷に立ち続けた句作者の感性が呼び覚ました「ピ-ン」をより鮮明に聞き取り、さらに強く、鋭い響きとして返していこうではないか。

<土岐省三>
―「ハトは泣いている」― 1.7、2019

金子兜太さん亡くなる

享年98。

本編への共感と支持のお言葉をいただいたことに感謝しつつ、ご冥福を。

「これまで見たことのないテーマを取り上げた映画に衝撃を受けた。
表現や作品を政治的判断で葬ろうとする姿勢は、15年戦争の頃とちっとも変わっていない。
ドイツが歴史を遡って残すべきものを考えているのに比べ、日本は浅はかで「月とスッポン」だ。
今、日本を戦争にもっていこうとする政治家は、生活する人びとの姿が見えていない。
政治の傲慢、役人の怠慢に対して市民が動く時代になることに期待したい」

補足:
2017年5月、熊谷上映の際、主催メンバーのYさんが「兜太さん」の娘さんのお友だちで、上映会について話したところ、「父も見るかも…」というので試写用DVDを渡したとのこと。(熊谷で金子さんを知る市民は、氏を「トータさん」と呼ぶ)この頃、97歳の氏は月に一度の東京新聞「平和の俳句」選考会を除いて、外出は控え目になっていた。

以下はYさんの話―全編2時間と知って、家族は兜太さんが最後まで見るのはつらいかも…と思いながら一緒に見始めたという。見ている中に、家族の気がかりは何のその、「じっくり、引き込まれるように、終わりまで一気に見ちゃった」とのこと。これを聞いたYさんが感想を求めたところ、ほぼ間を置かずにFAXで送られてきたのが前記の文。上映会チラシへの掲載、その他への転載もOKの快諾を得ている。

因みに、前記上映会の主催は「九条の会・熊谷」「熊谷空襲を忘れない市民の会」。熊谷空襲は、1945年8月14日。前記Yさんはこの「空襲を生き逃れた母が、翌8月15日に生んでくれたの。私は『平和の子』よ」という。

―ハトは泣いているー2.21, ’18

中垣さんのスピーチ

<「九条俳句」裁判、さいたま市控訴>

「2年4カ月の訴訟は何だったのかと憤りを感じる」―判決から1週間、市側の控訴を受けての原告の怒りの声である。句の「公民館だより」への不掲載を「思想、信条を理由とした不公正な取り扱い」で「違法」との司法判断に、市側が不服を申し立てたのだ。
不掲載を一貫して、「概ね妥当」と容認し続けてきた市長の意を受けてか、市議会、文教委員会それぞれに多数の同意を得ての控訴決定である。しかし、控訴の趣旨は、敗訴部分の取り消しを求めるだけで、何が不服か判らない。不掲載理由の検討プロセスを「不十分」「場当たり的」とズバッ、その原因を「憲法アレルギー」とバッサリ。カッコ悪くも露呈した行政の面子を何とか…と、理のないところでの悪あがきにしか見えない。こりゃ、そもそもの「アレルギー」昂じて、忖度の上塗りとでもいうべき重症化ではないのか!

判決の翌日、この夏、本編上映主催の相模原市の「九条の会」メンバーからメイルを頂いた。「判決に勇気をもらった」に続いて記されていた小さな”事件”―サークルの展示前日、館長から「やめろとはいえないけれど、今回、選挙もあるし、『九条』を出さないで」と言われたとのこと。各地で頻発している、「またしても―」のひとつである。

今回の市側の控訴を受け、原告、市民応援団も即刻控訴した。これからの戦いは、地裁判決が避けた「学習権と表現の自由」、九条句の「たより」への掲載(復帰)をはじめ、社会教育とそのための施設が誰のものかを社会一般に問う、新たな地平を望む法廷が期待される。市民応援団のいう「主役は私たち、市民が主役」を再確認する運動の新たなスタートである。

―「ハトは泣いている」―  (10.23.2017)

<判決続報>

さいたま市が控訴したそうですが、「そうするだろうな」という印象です。
裁判のやり取り、特に市側の主張をしらないので、判決文にたいする原告側のコメントや新聞報道からの印象ですが。

新聞記事によると「当方(市)の主張が(ほとんど)認められている」と市は評価するコメントを出しましたが、

「社会教育の専門家とは言えない」「掲載拒否判断は違法行為」「憲法アレルギー」など、判決文でけちょんけちょんにおちょくられては市としても、市側の弁護士としても職業的見栄の「全否定」にちかい内容ですから、
裁判長にしっかり憲法と法律を順守して仕事をしろよ、と、挑発されての控訴です。

裁判長が争点を拡大してくれました。

<10.13 浦和地裁報告>

「…5万円…棄却」―裁判長着席、言語不明瞭気味の判決主文で聞き取れたのは2語のみ。32人の傍聴者が不審げに顔を見合わせる間に、退廷。20秒余りの寸劇のよう。

「勝利判決!」「市側の主張は断罪されました!」―27人の弁護団を率いる佐々木団長の言に「拍手と歓声」が沸いたのは閉廷から1時間余り後の報告会でのこと。
弁護団も判決全文を吟味する間もないようであったが、「勝訴」には違いなく会場には安堵感と喜びが共有されていく中、司会者に促されて原告はじめそれぞれの発言。これらの独断的採録による報告―:
原告「勝訴の自信の一方、不安もあった。『不掲載は誤り』にホッとした思い。(事件は)ちっちゃなことだったがとても大事なことと認識するようになった。一方、3年4か月、(「公民館だより」の)九条句不掲載と俳句欄の空白がありながら、(掲載請求)却下は納得できない」

佐藤一子(社会教育学者/市民応援団)「全国に1万5千館ある公民館や図書館は社会教育のおける自由について足元を見つめる必要を促す判決。正当な理由、合理的根拠がないままの事件で、社会教育の現場に「公共性」を守ることが確認されたと理解できる。地域の学習施設に住民が主権者として社会に発信、問題提起したことに意義がある。行政と市民相互の信頼関係がないと社会は成り立たないことから、学習の場としての公的施設が地域住民の「表現の自由」を課題として受け止める必要がある。この後は(九条句を)「掲載させる」運動へ」

武内(市民応援団)「主役は私たち、『市民が主役』が確認された。掲載に向けて市側との交渉はこれから」

久保田弁護団事務局長「100%ではないが、意義ある判決―『中立・公正性』が市民の権利を制限する根拠になるのか、『不掲載』の違法性指摘は社会教育施設に対して意味あるもの(警鐘)となった。社教法23条が(館側の拠った)公平中立を正当化する根拠にならないとされた。姫路市などで市民の社会教育施設利用に際して、政権批判の内容を理由に不許可としたケースが違憲判決を受け、市側が謝罪したが、こうした事例が一般化することが望ましい。社会教育の場で専門性を持った人材が配置されていない、社教法を理解した専門職員が必要」

石川弁護士「学習権は思想、信条の自由と同様、憲法上の自由の対象となる」
以上が報告会の「暫定的」総括である。

この後に入手した判決文で際立っているのは―:
「原告の思想信条を理由として不掲載」としたことは「不公正な取り扱い」で「違法」と断じたこと。また、繰り返し指摘しているのが、不掲載とする過程とその結論に至るまで館側当事者が「十分な検討をしていない」それは、「一種の憲法アレルギー」の発露だと推認している。これはいみじくも、世に蔓延する忖度の大きな誘因に違いなく、司法の場でのこの認定はこの時期画期的と言ってもいい。

最後に原告のひと言「提訴に、はじめ迷いがあった。昔だったら牢屋に入れられたかもしれないが、どんな小さいことでも発言することの大切さを知ったことは良かった。「九条守れ」は今も言い続けなくてはいけないし、掲載に向けて前向きに取り組んでいきたい」
―今もなお、「ハトは泣いている」のだ― (10.15、2017)

「九条俳句」内容的には勝訴

-憲法問題、忖度問題にはふれずー
(裁判長は公民館館長を「憲法アレルギー」病とおもんぱかる)

判決は一部勝訴でした。

詳細は松本監督のコメントがあると思うので、私は要点だけ報告します。
大野和明裁判長は主文を読み上げただけで、それも無茶苦茶聞き取りにくい、しかもものすごく早口で、

30秒足らずの主文朗読中、私が聴取できた言葉は「被告は原告に5万円しはらえ」というのと「✕✕✕却下✕✕✕」だけでした。

しかし会場を移して行なわれた報告集会の冒頭の弁護士の報告と記者との質疑から確認できた裁判官の考えはとてもまっとうなものだと感心しました。

まず、公民館が主張した「公正中立」の理解を批判。公民館は市民が自由にものをいう権利を「公正中立」を盾に妨げることがあってはならない・・ということだ、

また、公民館のおこなった掲載拒否という行為は公務員の公正取り扱い義務に反している違法行為だと断じたこと、

さらに、一方の意見や思想を取り上げただけで公正中立性が損なわれるとした公民館職員(館長)の判断は著しく専門性を欠いている・・・

などとした、ワタシ的には裁判官としてとても立派なジャッジだったと感じた。

俳句の掲載をせよ、としなかったのは残念だが、

掲載するしないは法律的(契約上)は公民館側の裁量の範囲内なのでそこまでは言えないが、あんたたちの考えは間違っていて、

しかも社会教育のプロとは言えない素人だよ・・・

勉強しなおしなさいといったところか。

裁判官が元教員だったという公民館の館長をさして「憲法アレルギー」としたのも絶妙な診断だ(笑)

裁判長は『ハトは泣いている』中の中垣さんの「日本中病気」のことばをのシーンを見たのかも(笑)

<上映展開―「九条の会」へのアプローチ>

テレビを見る習慣がない身に、新聞とラジオから72回目のその日を思い出させられた。8月6日に次ぐ9日の長崎―政権の無為を示すだけのいつもの首相の言葉の羅列を脇に、核の被害と脅威を怠惰に見遣るだけの国に積極的対応を促す長崎市長、「あなたはどこの国の首相ですか」と面前のその男に問うた被爆者代表―そこに露呈されたのは、国際会議の場でも「被爆国」としての主張をなし得ない政権への苛立であり、国家権力が70年余り、建前としてきた平和主義が口先だけの建前に過ぎず、本気で取り組む意思などなかったことへの不信と憤りではなかったか。
「ハトは泣いている」上映会は、しぶとく市民団体の手で続けられている。今月も2日のミニ・シンポに続く6日、20日、9月3日と続くが、その先を模索する制作委の姿を受けて励ましの電話をいただいた。
この方は、茅ヶ崎での上映会で本編に共感を覚え、「今の状況を考える上で多くの刺激と示唆を含む映画」の上映を相模原市内で実現(64名)した女性グループのひとりである。ここから連鎖的に同地域市民グループによる上映が予定されるようになる。この方々に共通するのは「九条の会」、”どこか危ない”現状を考えようと集まった「学習グループ」、「近隣住民の集まり」―上映後、多くの場合、主催者と来場者を交えた話し合いの場が作られるが、そこには前記の長崎に通じる政権への不信、「危うくなった」憲法九条と先の戦争の問い直しへの共通したニーズが語られる。そのニーズは内実が怪しくなった「平和主義」と共に、それ以上に実在が危ぶまれる「民主主義」、それぞれの確認に向けられているように思える。
先程「励ましをいただいた」と述べたが、首都圏に限られていた上映の場をさらに他の地域へ展開して行くアクセスが掴めないというこちらに「九条の会」へのアプローチを勧められたのである。
「全国に7000と通称されるその数、規模と地域も大小様々、横の連絡はほとんどなく、名称はあるが活動の実体がない=一時的気分で動いたが『持続する志』を欠いたグループも少なからず、と聞いていますが…」との当方の反応に、「そういう団体もあるが、地に足を着けたひと達も沢山います。とにかくコンタクトの努力をしてみて―」と。そして「映画の中で中垣さんは『事件後、私から離れていったひと達が続いた』と言ってましたけど、映画を見たひと達の中にはあの方に沿おうとする人も沢山いるんです」と自らの実践と体験を踏まえての話。
そうなんだ、映画をきちんと受け止めるひと達は確かにいるのだ。揺らぐ九条とその先の平和の確認を問い続ける「長崎」と手を結び、「九条の会」の持続する志ある人びとへのアプローチを思い決めた電話であった。
お近くに「九条の会」会員をご存知の方、情報の拡大と仲介をよろしくお願いします。
(2017年8月10日記)

<「九条俳句裁判」最終審=第11回公判 >

さて、記憶をたどりながらの最終審の報告―原告側には句作者の他に8人の弁護人。対する被告側前列には、2人の弁護人と初回から変わらぬ市教委主事。本編中、度々の市民の批判に‴カエルの面…‴ よろしく、やり過ごし続けたあのお方だ。
一方の弁護側証人は2人―最初が市公民館運営審議会(公運審)委員長の安藤埼玉大教授。その証言からは、公の側の職務と市民(という存在)への無理解と無視が露呈する―先ず、公民館は市民の声をより多く聞き届け、これを反映して運営するという1949年、文部省が定めた施設本来の使命と役割が損なわれたこと。その内実は第10回公判報告に述べるように、九条句を前に「難しいかなぁ」に始まり「公平中立」のリフレーンへの滑稽な展開は先に述べた通りだ。驚くのは、公民館の役割が損なわれる現実(それが事件として進行するのだが)を問題と捉え、審議、是正に向かおうとする委員長の意向を前に、市教委側が消極的~批判的対応に終始。揚げ句に、職員が2~3人のユニットを組み、公運審各委員を個別に訪問、なし崩しの反対工作を働きかけたこと。これを背景に教育長は、市民側の地域的解決への呼びかけに背を向け、請願を無視し続けたのである。この一連の構図が示すのは、社会教育現場での職務の背任、公運審機能のサボタージュ、俳句掲載拒否=市民の「学習権の侵害」である。
小休憩後、傍聴の支援者たちが待ち望んだおおトリ、原告=句作者だ。
弁護人と原告とのやり取りは、周到なペア・ワークと言えた―公民館に集う句会員の俳句への関心、句会の楽しみなど、社会教育の一環としての俳句会の定義づけがなされる。次いで、作者が「表現がつたない」と思いながらも、特選句に選出された経緯。そして、掲載拒否への思いもかけない公民館側の対応。やがて、原告の口からは、最初の戸惑い、掲載拒否を理不尽と解し、やがて内心の憤りが「検閲」を意識しての怒りへと転じていくプロセスが語られる。そして、九条句の掲載拒否から2年近くに及ぶ俳句欄の中断という館側の対応に対して、「市教委側が表現の何たるかを理解していたら『事件』は起こり得なかっただろう」次いで、館側の「『公平中立』は不可解、当初迷いもあったが、提訴は正しい選択だった信じている」=不屈の宣言に聞こえる。
最後に「ささやかな活動が法的根拠のない、的外れな理由で阻害された本当の理由を知りたい」被告市長に対して「市民の文化活動に心を寄せてもらいたい」と迫る。最後に、「自らの戦争体験から戦後70年、平和に包まれた生活は憲法九条に守られたもの」「その思いは句会員皆が共有している」「当たり前のことが当たり前にできるように裁決を」とのアピールで閉じられた。
ほぼ1時間半に及ぶ原告陳述は、公民館に限らず公の場に蔓延する忖度を典型的な形で表出させた―「九条守れ!の女性デモ」への「難しいかなぁ」に始まる短絡。過剰な警戒と慮りが生んだ説明と論理を欠いた「公平中立」の空疎な連呼。笑えないのは、公の現場にいるひとたちの忖度が、当人たちに素朴な表現を封殺したことと認識されず、これが基本的人権にかかわる自由への暴力となり、その先の憲法、平和を侵す脅威となることへの想像力が働いていないことだ。
そして、この想像力の欠如は、政権中枢の慢性的病いとして永田町を席巻し、論理と説明に代わり、強弁と論理のすり替えを日常的に許すほどにまで、良識の劣化を加速している。
(2017年5月31日記)

<「梅雨空に 「九条守れ」の 女性デモ >

-「九条俳句裁判」が露呈するもの-

裁判開始から1年9カ月、第10回を迎える公判は「テレビドラマの法廷シーン」をはるかに超えた攻防がもたらす緊張感の一方、モリエールも顔負けの滑稽さを伴うものでもあった。内容の多くは本編中で語られるが、そのナンセンスさの示す怖さを伝えたい。
被告=市側証人は3人―提出された“九条俳句”を問題と感じた公民館の担当職員とその館長、両人の問題視を追認した管轄公民館長。彼らに対し、原告側7人の弁護士が緻密な連携で、質問、事実の確認、掲載拒否理由の論拠(の無さ)を糺していく。
「事件」の発端は、受け取った担当職員の「(掲載が)難しいかなぁ」の印象だった。
この「難しいかなぁ」は当の館長とそこの管轄公民館の館長も同じ言葉を使った。その「難しさ」の根拠を問われると説明として聞ける言葉が出てこない!曰く「思想的、政治的」、「九条守れ、女性デモは政治的要素を含む」「(小中学校の)入学式、卒業式での日の丸、君が代で職員会議がもめた経験があった」―この直結/飛躍は何なのだろうか?!俳句そのものを見ていない。
翌日、句会と句作者に「掲載は難しい」と伝えるが、聞いた方は当然、「何故ですか?」案の定、納得を得られる説明はできない。揚げ句が「代わりの句を…」とトンデモナイ要求をするが、その理不尽さは自覚されていない。次いで、句作者から文書による説明を求められて頼ったのが社会教育法23条=「特定の政党の利害に関する事業、候補者の支援」を行ってはならないの条項。そして公的施設としての「公平中立」だ。そこには俳句という「17文字の文芸、表現」の定義など全く視野にない。そして、23条も社教法も公民館という公の側を縛るものであって、市民を規制の対象とするモノではないことにもまた、気付いていない。このパターン、われらが宰相の憲法理解と相似、いや「合同」ではないか!
法廷の嘲笑を買ったのは「特定の政党」はどこを、どの党を想定したのかの質問に、3人が一様に答えに窮した、いや、喉まで出かかった固有名詞を必死に抑え込む息遣いが手に取るように感じられたからであろう。こうした思考(とも呼べない)過程の中から「『九条守れ』が公民館の考えだと誤解される」「集団的自衛権~」「公平中立の立場から~」のリフレーンとなったのだった。
そこにあったのは、歴史を逆行する政治・政権の意志に進んで囚われ、固定化した思考停止と過剰な慮り=忖度の芋づる式感染症、蔓延である。症状の実態とそのナンセンスさを市民応援団が論破して行く過程は、本編が示す通りだが、感染症の病原=「忖度」「公平中立」は各所に出没し、表現に始まる様々な自由を侵食し、その先の憲法、平和を蝕もうとしている。方々、油断なりませぬぞ。
(2017年3月9日記)

<「海老名市公民館での本編上映」アピール II >

-「フラッシュモブ裁判」判決を受けて-

昨日3月8日、横浜地裁で原告(市民)勝訴の判決があった。先に、このページで「事件と市条例、表現をめぐる状況の今を考える場を共有するために、現地=海老名市での本編上映」を呼び掛けたが、その「事件」の最終公判である。
「事件」は市内私鉄駅自由通路でのマネキン・フラッシュモブ=沈黙・静止状態で文言を記したカードを掲げる「グループ・パフォーマンス」=がデモ、集会、座り込みなどを全面禁止する市条例に違反とされ、市民の側はこれを「表現の自由への侵害」=違憲として提訴したもの。
判決は当該パフォーマンスが条例に述べる「歩行者の安全で快適な往来に著しい支障をきたす恐れが強い行為」に当たらないとして、市側の禁止命令を取り消した。その点で、原告勝訴ではあるが、表現の自由、集会の自由を保障する憲法に照らした市条例の合/違憲性には触れていない。
問題はこれからである。聞けばこの条例、市議会で22x4(❓=だと聞いた)の「圧倒的賛成多数」で可決されたという。そこでのキィ・ワードは「安全で快適な往来」―衛生無害なこの手の単語、本編に登場する二つの事件で聞く「公平中立」と同じだ。
公の側のこうした“大義名分”用語が今、様々な場で忖度を生み、人びとを委縮させ、状況や政治への危惧を語ろうとする口を重くさせている。しかし、本編の登場人物たちが語るように、「安全や快適」「公平か、中立か」は「市民が判断するもの」「それを保障してくってのが公の側」である。「民主主義の世の中、行政にそんな権限はない」…のだ。
公の側が生み出す忖度や大義名分は、気分で諮られるために説明も論理もない。いつも唐突で強圧的だ。そして、基本的人権にかかわる自由への暴力として現れる。その侵すものは表現に始まる様々な自由、人権、ひいてはこれらを保障してきた憲法。そして平和だ。
再度問う―フラッシュモブ裁判は原告勝訴となったが、そもそもの発端となった市条例の「デモ、集会、座り込み」禁止条項の合/違憲は問われていない。「表現の自由」=基本的人権を侵す条例の合法性=適・不適を問う必要があるのではないか。本編上映を踏まえて、より多くの市民による話し合いの場作りとなる上映会を!―制作委からの提案です。
(2017年3月9日記)

<―海老名市公民館での上映に向けた協力の呼びかけ―>

昨年2月、海老名駅自由通路でのマネキン・フラッシュモブ=沈黙・静止状態での意志表現=がデモ、集会を全面禁止する市条例に違反とされました。これを「表現の自由への侵害」として当事者が提訴。裁判は3月8日に結審の予定。
事件と市条例、表現をめぐる状況の今を考える場を共有するために、現地=海老名市内での本編上映実現に協力・参加を求めます。上映会場の候補・選定へのアドバイス、情報の拡散など力を貸していただける方は下記連絡先へアクセス、お申し出ください。
本編に登場する二つの事件の舞台は、都美術館とさいたま市公民館。
両事件の後も、改憲に向かう政権の意向を気遣う ‴公の側‴ の忖度が、表現、或いは、通常の市民活動を妨げる事件が後を断たない。
そこでの公の側の言い分は「公平中立を保つため」―その論理的虚構とそれによって脅かされる表現の自由、憲法、そして平和。そんな危うさと不条理に疑問を突き付け、抗い、論破していくひとびとの営為を今の状況を背景に映画は浮き彫りにしていく。
昨年暮れ、「九条俳句市民応援団」の主催により、事件の舞台=さいたま市三橋公民館で、本編の上映が実現。周辺住民が大半となった観客は、事件を聞き知っていたものの、俳句会・市民vs公民館・市教委との1年余りにわたる攻防を目の当たりにするのは初めて。会場では、公の側の論拠の希薄さと理不尽な対応に失笑、時に嘲笑が混じる。また、市民の側の主張には賛同の拍手が沸いた。
この経験から、制作委は本編の新たな上映の場として、各地域の公民館、市民センターなど公的施設での上映を思いつき、その運動の形での展開を試みることに決めました。
その一環としての呼びかけです。
海老名市に限らず大和、座間、相模原、厚木、茅ヶ崎、藤沢など、近隣の方々の情報提供、積極的参加をお待ちします。
連絡先:e-mail: l_continua@yahoo.co.jp  045-479-1424(岩見)  070-4227-1549(松本)
(2017年2月12日記)

<映画「ハトは泣いている」上映協力・拡散への制作委員会アピール>

本編は2014年に起きた二つの事件の1年余りを追ったドキュメンタリー(130分)。
・「都美術館事件」―同館の彫刻作家展に出品の立体作品に添付された現政権への批判的文言に対し右翼から脅しがあり、館側が作品の撤去を要請。
・「九条俳句事件」―さいたま市の公民館が「梅雨空に『九条守れ』の 女性デモ」の句を公平中立の場である「公民館の意見と誤解される」と月報「公民館だより」への掲載を拒否。
両事件に止まらず、公の側の忖度が引き起こす類似の事件は後を断たない。
この忖度―お上の意向を伺う過剰な懼れや気遣い由来のために説明も論理も欠き、いつも唐突で強圧的だ。そして、基本的人権にかかわる自由への暴力として現れる。その侵すものは表現に始まる様々な自由、人権、ひいてはこれらを保障してきた憲法、そして平和だ。
今進行するこうした状況に、本編の登場人物たちはそれぞれに向かい合い、考え、時に自問し、見る者に問いかける:
・彫刻家の目に映るドイツ―過去の負の遺産を引き受け、将来に受け継ご
う とする国の決意。
・日系ドイツ人画廊オーナーの祖父が日記に記す帝国軍隊の暴虐の実態、
国家への懐疑。
・九条俳句掲載を拒否し続ける市教委と対峙し続ける「市民応援団」。
時に詰問に変ずる討議の過程は公の側の忖度とその論理的根拠の不在を
露わにしていく。その過程はまた、市民の権利意識の自覚であり、憲法
九条と平和擁護の再確認への道程だ。
そして、映画は問いかける―戦後70年、この国が謳歌してきた平和は、既に腐り始めているのではないか?この時代、過去をどう総括し、憲法と平和を守るために私たちは何をするのか?そして、何ができるか?
本編は昨年5月に完成後、できる限り市民・団体の手で上映をと強く望んできた。これに応えるように都内、さいたま市、横浜の各市民団体の手で13回上映された。その間に内容に共感した人たちの中からボランタリーに「上映をすすめる会」が立ち上げられ、制作委員会共々今年からさらに本格的上映展開を期している。
中でも、昨年11月3日の「憲法公布70年」~今年5月3日「憲法施行70年」の半年を「首都圏同時多発プロジェクト」として上映とトークの会を進めている。これまでの会場は画廊、図書館、大学、公民館、市民ホールなど様々。
お住まい地域公民館、地区センターなどでの上映・拡大への協力・参加をお願いします。
「ハトは泣いている」制作委員会/上映をすすめる会     e-mail: l_continua@yahoo.co.jp
(2017年1月3日記)

<75年目の「赤紙」>

茅ヶ崎市の市民運動をしている方々への試写を終え、駅構内に向かっているときのこと。
制作委メンバーの話に耳を傾けていたせいか、唐突に差し出された赤いチラシ。配っているのは3人の高齢女性―「75年前の12月8日、日本が戦争を始めた日です」 そうか「12月8日」だったのだ、明日は―。
チラシの表には9条の条文、裏には原寸大(だろう)の「赤紙=あかがみ」のコピー=「歩兵第三十三聯隊への臨時召集令状」。三重県津市の男性の住所氏名。驚くのは召集の指定到着日時だ。「昭和拾六年八月拾五日午後参時」。丸4年後の同月同日、彼は、例のラジオ放送を聞けただろうか、どこで、そして、どんな思いで?
この3日前、安倍首相はオバマ大統領との真珠湾訪問を発表している。曰く、「かつての敵同志を共通の利益と共有する価値観により結束させ、最も親密な同盟国に変えた和解の力を示す機会となる」「日米は世界の様々な課題に取り組む希望の同盟となった。その価値、意義は過去も現在も未来も変わらないことを確認する」―誇らしげに語る表情が見えるようだ。相も変らぬ対米盲従、学ぶことのないパックス・アメリカーナの能天気な受容。止まらぬ単語の浪費が生む文意の空洞化は重症化の一方だ!
挙げ句に「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。その未来に向けた決意を示したい」だって!まともに聞こうとすればするほど「二度目の戦争に参加しなければならない。そこに向けた決意を示したい」と聞こえてこないか。
知性と歴史認識の欠如故か、75年前に彼の祖父を含む指導者たちがアジアに対して何をしたかは全く見えていない、見ようとしていないこの男が、真珠湾から戻ったら何を言い出すのだろう?
「中国は南シナ海のど真ん中に軍事施設を建設していいかとわれわれに尋ねただろうか」「我々の了解を得て米企業の競争力を削ぐような通貨切り下げをしているのが中国だ」―OKマーク(?)を作った右手をかざし、左手を聴衆に向けて得意気な表情のあの金髪男の言だ。
年明け早々、米46代大統領となる男の元にいち早く参じたわれらが宰相共々に、東/南シナ海の緊張を高音域で謳い上げる危険なデュオにならねば良いが…と願うばかりだ。
さきほどの赤紙、表には、幼児の男女のイラストに「ぼくたちはせんそうしない日本で生きる」「生命を生み出す母親は 生命を育て 生命を守ることをのぞみます」、裏面には「神奈川県母親連絡会」の署名があった。

<求む!上映協力への参加 ―制作委からのメッセージ―>

本編は5月に完成後、HPでご覧のように、都内、さいたま市、横浜で市民団体を中心に10回上映されました。特にさいたま地区はその半数を「九条俳句市民応援団」が提訴・公判を支えながら上映運営を担って頂いています。その過程で「憲法を考える映画の会」が都内上映を主催。その先で、両者を核にボランタリィな本編の「上映をすすめる会」が結成され、さらなる上映拡散の緒についたところ。
一方で、制作委員会も主催上映をと挑んだのが先述の「10.30 上映とトークの会」―皆、制作現場の経験はあるものの初めてのこと―見かねた横浜上映を主催した団体有志の方々の協力で開場にこぎつけたところが、<閑古鳥…>という結果に…。電車の不通という事故に見舞われたとは言え、「経験に学ぶ」の教訓を確認した、と納得するのみ。

これを経て当面の目標とするのが神奈川県内「市域公民館での上映会」―「九条俳句事件」に限らず、「表現(の自由」」への制限=侵害が「公の忖度」によって市民活動の先端の場である公民館で頻出する今、その場での本編上映を通して「公民館」本来の役割を問い直し、市民の表現の場として再確認のキッカケ作りのねらいがあります。
「公の忖度」が誘引する様々な「表現の自由侵害」事件。その多くは先の戦争、歴史認識、政治の責任、人権、ひいては憲法、そして平和に直結する。そんな今の現実をどう考えるのかを観る人に映画は問いかけます。
「内部からいつもくさってくる桃、平和」―戦後70年を経てこの国が謳歌してきた平和はすでに腐り始めているのではないか―この映画の問いかけに共に考え、応えようとするひとたちの上映への参加と協力を強く求めています。
Tel: 070-4227-1549/045-479-1424 e-mail: l_continua@yahoo.co.jp
(2016年11月14日記)

<閑古鳥が鳴いていた!>

この下にアップされた動画をご覧いただいただろうか。120人収容のホールがほぼガラガラの状態でのパネルトークだ。「ハト」の代わりに閑古鳥が鳴く会場を敢えて見せることにしたのは、パネルの真摯な報告内容と参加者との質疑応答のためだ。
14:00開映を前に会場への唯一の足である京浜東北線の二つの駅で人身事故が相次ぎ、不通となる。特に関内駅での事故は会場への時間帯を直撃したと思われ、急きょ上映開始を30分遅らせたが、途中であきらめた人が少なからずあったと思われる。キャパの1/3ほどの入場者、上映後のトークも30分余りずれたために帰るひとが多く、その結果が、先述の画面だ。トークの概容をお伝えしようー。
パネリスト3人は、それぞれ公(市・区)の忖度が誘因となって起きた事件の当事者で、各事件の概容を語り問題の周知と共有が主催側のねらいである。
先ず「歴史を学ぶ市民の会・神奈川」の北さん。横浜市教育委員会による中学歴史副読本に掲載されてきた「関東大震災時の朝鮮人虐殺事件」の記述抹消。市域の中・高が使う社会科教科書を育鵬社版に統一採用を決めた市教委に対して、同事件抹消方針の追求と抗議、復元への取り組みが語られた。
次は、栄区を基盤とする市民団体「ぶんぶんトークの会」の真矢さん。区が編集発行するタウンニュースに活動内容の紹介を求められ、提出した原稿が断りもなく改変された。「原発のない社会を目指す…」が「再生可能エネルギー社会の実現を目指す…」に書き換えられ、「憲法カフェなどのイベントも」が削除。区側は「分かりやすく紹介するため」という。どこが分かりにくいのか?‼
会員たちの抗議と東京新聞の記事掲載を受けて林横浜市長は「書き換えは不適切」と述べ、区がタウンニュースに謝罪文を掲載した。
最後のパネリストは、本編に登場する「九条俳句の市民応援団」の坂木さん。この内容は本編に譲ることにー。
さらに、「記憶の継承を進める会」が会場から参加。教科書パネル展などへ日本会議の市会議員がクレームをつけたり、この種の展示への攻撃のあることが報告された。

公の忖度による事件は後を断たない。そこでは、表現に始まる様々な自由への制限、圧迫、ひいては基本的人権への侵害がある。政治を語ったり、「憲法」や「平和」を口にするのをためらうような風潮に掉さし、沈黙と傍観から脱することが今、求められていることをパネルが語りかけている。詳しくは、ビデオ・リポートをどうぞ。
(2016年11月9日記)

動画視聴はこちら

「ハトは泣いているトーク20161105」

<10.26 三橋公民館上映:純化される「九条句」>

「九条俳句市民応援団」主催で「事件現場」=三橋公民館での上映が実現した。応援団メンバーがじゅうたん作戦で周辺の戸口にチラシを投げ入れた結果、ウィークデー14:00からの上映にご近所30人余りの来場となった。地元だけに事件を知る人は多いが、市民と市教委との交渉の現場は初見だ―忖度が招いた掲載拒否のわけを臆することなく糺す市民への共感の笑い、誰が聞いても納得できない市教委の「公平中立」の論拠の無理に会場の嘲笑が沸く。
それにしても問題とされた句「梅雨空に 九条守れの 女性デモ」は、時の経過と共に〝純化‴されてきているように思える。
「電光ニュースで流れ過ぎていくような句」と作者は言うが、ホント、単純素朴に情景を詠んだこの句のどこが問題なのだ❓‼というのが大方の感想ではなかったか。だが、俳句会員の過半数によって、この句が互選された事実を思い返すと、別なものが見えてくる。
ほぼ皆が「後期高齢」の句会員は、この単純な五七五の連なりを前にしたあのとき、時代に漂い始めた危険な空気を直感したのではないか。遠く、忘れていた、切れかかっていた記憶の糸が唐突にピーンと張る音を聞いたような―。
一方、「事件」と報じた新聞、これを「表現」への横暴と受け止め、何やら不安を覚えて掲載拒否の理由提示と不掲載の見直しを求める市民の運動は、「憲法九条」―改憲への危機感に促されて提訴に向かう運動に発展、今なお審理は続いている。
だが、多数を恃んだ政治が安保法案のゴリ押し、改憲=平和憲法放棄を射程に捉え、「軍隊」「派兵」が現実的になった今、ノンポリと同義語だった若者が抗議の声を上げ、ほぼ半世紀ぶりに国会を取り巻く大衆的うねりの中で、句会員が聞いた糸の「ピーン」を耳底に感じた人は少なくなかったはずだ。
この音の可聴域の広がりは、あの句を推した句会員の感じた危機感の広がりに違いない。ここにきて、句が喚起する危機感を思う時、今進行する状況が、この句の純化を加速していくように思える。「ピーン」の響きは加齢による幻聴ではないのだ。
「幼い頃、戦争を体験している私は、この70年、九条に守られて平和に暮らしてきたことをありがたく思っています。…」(原告の意見陳述)
原告として提訴の法廷に立つ句作者の感性が呼び覚ました「ピ-ン」をより鮮明に聞き取るために、耳を澄まそうではないか。
(2016年10月29日記)

<記号としての「ハト」=Doves vs Hawks>

上映後、会場での質疑の時間で意外だったことに本編タイトルの「ハト」がある。
「ハトが出てくると思っていました」との縁日の人寄せ手品を思わせる発言は、映画を見終わった段階でその期待(?)は解消されたと思う。
予期せぬ発言だったのが、「タイトルにあるハトの意味が判りませんでした」である。
「えぇっ!!との一方で映画を見終わった後の疑問であるだけに、些かショックであった。どうやら、「平和の象徴としてのハト」=「記号化されたハト」を知識として持っていないのだ。ということは、ハト派・タカ派という単語もご存知ないということになるか。この発言、実は会場を別にして2回あり、一度は明らかに若者世代の男性、2度目は白髪を帯びた女性であった。
単に年齢層だけで判断はしかねるものの、後者は別の意味で予想外=よく判らない。
前者の場合、「記号としてのハト」は、既に意味を持たなくなっているのだろうかとの疑問が湧いてくる。戦後70年、史上稀とも言われる長期の平和に浸りきっている日本である。その間に平和であることの有り難さなど最早失せているのかもしれない。敗戦後間もなく専売公社から発売されたたばこ「ピース」は、文字通り、日中~第2次大戦に倦み疲れた日本人が深い反省と決意を持って望んだ「平和」に違いない。
若者の「意味が判りません」は、本編中で中垣氏がいうように、この国の保守政権が意図してきた教育の成果なのだろう。過去を隠蔽する一方で、政権は教育面で「国際化」だの「国際人の育成」などの言葉を弄する。過去を総括することなく未来を描くことなどできようはずはなく、周辺の国々との信頼に基づく友好なくして「美しい国」など成り立ちようもないのに。
歴史認識と知性を欠いた男を首相に戴くことで、記号化されたハトの姿はますますおぼろになって行く――今、ホントに「ハトは泣いている」のだ。
(2016年10月22日記)

「九条俳句違憲訴訟 国賠提訴から1年」

(「ハトは泣いている」映画制作に当たって)

定員150の会場はほぼ満席。「提訴1周年」取材の記者たちは壁面に置かれた椅子でやっとノートPCを広げられる態である。映画はやはり、ガラガラよりも席の埋まった状態で見る方が制作者側としてはホッとする。今回は、地元ということもあって、観客の反応がいい―スクリーンへの反応が率直でなお且つ、熱い。
本編の撮影に先立って「俳句事件」の市民団体にコンタクトしたのが2014年8月。事件と状況に関する基本認識を確認して、カメラが回り始めたのは9月末の市民集会からである。一方、当事者である俳句会の方々へも企画のねらいを説明し、基本的了解を得ながら撮り進めることになったが、当分の間はどこか胡散臭げに見られていたようだ。集会の後で会話を重ねる中でお互いの距離も縮まったようだが、打ち解けるようになったのは、こちらも俳句会に出て即席の五七五を並べてからだったろう。
撮影は翌年の提訴まで、1年4カ月に及んだ。その時間は、8人の市民の声かけで始まった「俳句掲載拒否を考える市民の集い」が「九条俳句市民応援団」、そして「九条俳句違憲国賠訴訟を市民の手で!実行委員会」への変貌の期間であり、俳句会員にとっては、サークル活動で場所を借りているだけと思っていた公民館が、「単なる情景を詠んだだけの俳句」を理不尽にも否定する『公』民館であり、そんな民主主義を損うことを平気で押し通す力と「何かおかしい」状況への気付きを促される1年余りだった、といえるようだ。
映画は、「俳句事件」とこの5か月前に起きた「都美術館事件」それぞれのほぼ同時間を交互に追って展開する。後者は、同館での彫刻作家展に出品の立体作品に添えられた現政権に対する批判的文言に右翼の脅しがあり、これを受けて館側が作品撤去を迫ったもの。問題の作品はその後、ドイツ、ベルリンの画廊から招待を受け、現地で2か月間展示された。そこで芸術家の眼に映るドイツの歴史の記憶と後の世代への伝達を日本のそれらに照らし、この国の過去と今直面する憲法の現状への問いかけを発している。
映画の中で、両事件は必然的に出会いの場を得ることになるが、制作に当たっての関心は、双方の背後にちらつく公の側の「忖度」であった。この忖度は、以前にも「慰安婦」写真展の中止、「はだしのゲン」の学校図書館からの撤去、漫画「美味しんぼ」の鼻血描写への閣僚の不快表明などの事件を引き起こし、今も各地に浸潤している。侵されているのは表現に始まる様々な自由、人権、ひいてはこれらを保障してきた憲法…。
詩人、茨木のり子はいう―「内部からいつもくさってくる桃、平和」―戦後70年、この国が謳歌してきた平和は既に腐り始めているのではないか―映画の問い掛けである。
<ドキュメンタリ―演出 松本武顕>

(国賠ネットワーク NO.160 2016.7.9より)